☆ 歴史 ☆  Kouichi Oba ☆ 
   (宗谷に関する歴史伝説)  出来事 ※ 歴史上の人物   歴史伝説
歴史上の人物は、主に宗谷村に関係のある人々を抜粋しています。(画像は一部 ウキベディアより)
 
※ カネクロ沢
 寛政年間(1790年頃)江戸時代後期、宗谷のコタンにオキミルクというアイヌの娘(メノコ)がいた、早くに母をなくし眼の不自由な父と弟と暮らしていた。オキミルクは一家の大黒柱として一生懸命に働いた。しかし一家は貧しく辛い日々を送っていた。父親が失明し働けなかったからだった。
 霊験あらたかな話を聞いた娘は、和人もアイヌ人も神様は差別しないだろうと父親の回復を祈願して、宗谷厳島神社にお百度参りをした。満願を向かえ祈願を終え寝たところ、夢枕に現れた天女のお告げで、「カネクロサワの清水で眼を清めよ」と聞く。
娘は夜が明けるのも待たずこの清水を探しに行ったという。苦労をして探し当てた娘は竹筒一杯に水を持って帰り、父の眼を洗ったところ不思議なことに一夜にして視力が戻ったそうだ。
 後に知るのだが、この時の天女は和人が信仰する弁財天であることを知った親子は、毎日厳島神社を参拝したという。以来、カネクロサワの清水には眼病をもたらす悪魔を金縛りにする力があると信じられ、アイヌばかりでなく遠くの村々から、たくさんの和人が霊水を求めてこの地に集まったという
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※ 抜海岩
 日本海に面する抜海には、オロロンラインの脇に抜海岩という大きな岩がある。その昔、近くに住む天塩アイヌと宗谷アイヌの間に激しい闘いがあった。劣勢となった天塩アイヌは、勇猛果敢な礼文アイヌに応援を求めたところ大勢で馳せ参じてくれた。おかげで天塩アイヌは、ようやく勢力を挽回する事が出来た。 この時の若者ワルパカは、天塩アイヌのモナシノウクとが恋に落ち子供をもうけた為、礼文アイヌはてっきり二人が一緒になるものと思い、彼を残して礼文へ引き上げてしまった。
 けれども彼は、生まれ育った礼文が恋しくなり、一人でこっそりと島へ帰ってしまう。残された妻子は、ひたすら夫の帰りを待った。残された妻と子は、悲しみの日々を過ごし、レブンを望む小高い丘に登っては、ひたすら夫の帰りを待つ様になった。やせ衰えた母と子の姿が丘から消える事はなかった。悲しみの深さを知っているコタンの人達もモナシノウクをそっとしておく様になった。
 やがて悲しみのあまり、大きな二つの重ね岩に化身したという伝説が残っている。以来、人々はこの岩の上に登る事がなくなった。モナシノウクとその子の悲しみが嵐を呼び、日本海を荒れさせ礼文の島影を見えなくしてしまうから。
 
 
 鬼切別川
 宗谷アイヌのコタンは、冬の厳しさを除けば楽園そのものであった。海は魚であふれ、うっそうと茂る森林は絶好の狩猟の場所であった。 その頃の宗谷アイヌは勇敢で名をは馳せており、天塩アイヌとの戦いでも、常に優位を保っていた強力な集団だった。
 中でもシリウス(現在の宗谷岬)に住む宗谷アイヌは「武闘派集団」として名を馳せていたが、彼らですら、どうしても手が出せない相手がいた。それは、コタンの裏手にある丸山に住む鬼。コタンでは、丸山に絶対に近寄るな、その山に住む怪物に入ると襲われ食べられ二度とコタンへは戻れなくなると代々語り継がれていた。
 そんなある日、シリウスのコタンから若いメノコが一人、また一人と消えてゆく事件が起こった。その行方は誰も知れず、まるで神隠しにでもあった様な消え方で、戦士達でさえ恐れおののく程。しかし、いつまでも放っておいてはメノコがさらわれる一方。 そこで、古老と戦士が相談の上、若者達が寝ずの番で見回り「神隠し」の正体を暴く事にした。
 その夜、数人の若者がコタンの中を見回っていると異様な姿の”怪物”が、コタンに入って来た。駆け寄ってみると、ざんばら髪に牙を向き、頭にはツノを持った全裸に近い大男、あの丸山の鬼だった。 勇気を奮い起こし立ち向かったが、一人のメノコがその巨体に担ぎ上げられさらわれてしまった。
 コタンでは対策を練るため緊急会議が開かれたが、血気盛んな戦士達は、コタンの正義を守為に満場一致で「鬼打つべし」の結論に達し、早速丸山へ向かった。 ところがこの丸山、すり鉢を伏せた様な形をしており宗谷では一番高い山。頂上の鬼からは攻めてくるシリウス戦士が丸見えで、登り切る前に鬼の攻撃を受ける結果となり、壮絶な戦いが3日3晩繰り返された。
 そして、4日目の朝、村の古老はコタンの東側を流れる川が血に染まるの見た。憎い鬼の血か、それとも傷ついた戦士達の血が、祈る様な気持ちで丸山の方向を見上げると、突如、戦士の勝鬨が聞こえてきた。
 その後、この川はオニキリベツ川と呼ばれる様になり、シリウスのコタンは平和に栄え、やがて宗谷岬と呼ばれる様になった。
 
 
※ 東風石(ヤマセ石)
 宗谷岬にほど近い清浜の海岸の波間に、3つの石がある。波打ち際にあるのが”子持ち石”、少し沖合の2個の大きな石を合わせて「ヤマセ石」と呼んでいる。
 和人が入る前の宗谷は、それこそアイヌの人々の楽園であった。ピリカタイ(現・第一清浜)の集落も、海の幸、山の幸に恵まれた土地で、アイヌの人々は平和な日々を過ごしていた。
 アイヌラックの酋長の娘・ウタノクは、メノコの中でも小柄ながらも美しい娘であった。コタンの若者なら、誰しもが、密かに恋いこがれていたのが、逞しい青年モシレチクチクだった。狩りをさせても、魚を獲らせても、誰にも負ける事がなくアイヌ酋長も、この青年には人一倍目をかけ頼りにしていた。
 しかし、いくら可愛い娘の願いであっても、この青年を婿にするわけにはいかなかった。それは、モシレには既に恋女房と可愛い子供がいたから。
 けれども、ウタノクの恋心は激しくなるばかり、モシレもこれに気付かないはずはなく、いつしか二人は人目をしのびながらも深く愛し合う様になった。しかし、狭いコタンのこと、噂はたちまち広がり、耐えきれなくなった二人は対岸に見える樺太の地に逃れ、愛を育てる事を決意した。
 ある風の静かな夜、二人は密かに小舟に乗り、沖へと漕ぎ出した。モシレの妻もこれに気付かないはずはなく、悲しみと怒りに満ちた妻は我が子を背にし、海中深く身を投じてしまった。 そのとたん、二人を乗せた小舟はピタリと止まってしまった。風がなければ樺太へは行けない。二人は天に向って「風よ吹け、風よ吹け」と大声で叫んだ。その時、一じんの風が宗谷海峡を渡って来た、と喜んだのも束の間、その風は大しけを呼ぶヤマセの風だった。海は荒れ狂い、二人はたちまち波に飲み込まれてしまった。大しけがおさまった翌日、コタンのすぐ波打ち際に見慣れぬ三つの石があった。
 モシレと二人のメノコが、一夜にして石になってしまったのだ。沖の石は夜半過ぎると「風よ吹け・・・」と泣き、渚の石は毎夜「しくしく・・・」と泣いていたと言われている。
 
 
 
※ アイヌの人々の飢餓を救ったコロポックル
 頃ポックルとは、アイヌ語で「蕗の葉の下に住む人」という意味。この小さなコロポックルにまつわる伝説は全道各地に残されている。
 稚内市内にも泊内(現・宗谷岬東海岸)、声問シュプントウ(現・大沼)、宗谷などにコロポックルがいたと云い、抜海岩の一角にある小さな岩穴もコロポックルの住処だったと言い伝えられている。
 天明の大飢饉は、日本全土に広がり、この宗谷でも海や山の食べ物が根こそぎ奪われ、もともと耕作技能を持たない彼らにとって獣や魚もなく、草や木の実ない生活は、飢えで死を待つ様なもの。
 そうした家々に、毎晩誰かが貴重な食べ物を投げ入れて行く様になった。空腹の毎日を送っていた彼等にとっては、正に天の助け、神様からの贈り物とさえ思えた。 そんなある晩、一人が「今目で神様とやらを見ていたいものだ」と考え、息を押し殺して家の入口で待ち構えていると、コタンが静まった丑三つ時、小さな足音とともに食料が投げ込まれた。今とばかりに、送り主の腕をつかむや否や、家の中に引き入れた。なんと身の丈わづか三尺(約1m)たらずの素っ裸の女性。
 これにはびっくり仰天。コロポックルは恥ずかしそうにうつむいてたが、彼らの腕をくぐり抜け、何処ともなく去っていった。 それから、コロポックルは二度と彼らの前に姿を現さなくなり、彼らは再び飢餓の毎日を過ごさなければならなくなった。
 
 
※ 海の護神
 
ノシャップ岬は遠浅で,日本海とオホーツク海の二つの海流が複雑な流れを起こし、しかも丘から強風が吹きつける為、海の難所となっている。 海難も多く、多くの人命を奪った。ニシンの千石場所として栄えたこの地域の人々が何時も豊漁後、海上安全を祈願してきたのが、岬の一角にある岬神社。その御神体は1個の大きな石。
 その昔、漁師が網を入れると魚と一緒に大きな丸い石が上がって来たと言う。普通では考えられない程の大きさがあり、漁師は作業の邪魔になり、漁具も痛める事から、直ぐ海中に投げ捨てた。ところが、何故か間もなく海が荒れだした。
 それから数日後、出漁すると決まって誰かの網に丸い大きな石がかかる。その度に海中に投げ捨てられたが、投げると海が荒れ狂うと云う繰り返しだった。 そのうち、誰が言うともなく時化(シケ)の正体はあの丸い石ではないかと噂する様になり、因縁を感じた漁師たちは、今度あの石がかかったら丘へ持ち帰り祀ろうと申し合わせた。 そんな折、宗谷場所へと向かう柏屋の持ち船が日本海からノシャプ岬沖を回り、宗谷湾に入って来た。文化年間、当時は春風が吹き始めると、松前江差あたりからその風を利用して日本海沿いで宗谷場所に物資を運ぶ船・弁財船(北前船)が何隻もやって来たが、この船もその一つだった。
 この時の海はひどい時化(シケ)で、とても宗谷まで航海出来る様な状態ではなかった。やむなく沖に錨を下ろし、時化が治まるのを待つ事にしたが、嵐は強まる一方で、張り詰めた錨りの網が1本2本と切れ、ついに最後の一本を残すのみとなってしまった。
 弁財船は難破寸前、神にも祈る様な気持ちで”命の一個”を投じた処、海の中でジャックという強い手応えが感じられ、船も乗組員も無事助かった。 やがて時化も納まり、錨綱を巻き上げてみると、錨の先になんと30貫(約113㎏)もあろうかと思われる丸い大きな石が引っ掛かっているではないか。漁師達は「これはきっと神様のご加護による奇跡に違いない」と云う事で、この丸い石を譲り受けノシャプ岬に祠を建てて祀った。
 お蔭で、それ以来海難事故も少なくなり、ノシャップ岬は繁栄し、いつしか祠は岬神社として崇められる様になった。(岬神社)
 
 
 
 
※ 源義経・試し切りの岩
 兄、頼朝に追われ、日本海を北へ向かって逃れてきた義経は、宗谷のオンコロマナイ(現・第1清浜)海岸に、数人の家来共々たどり着いた。 さしもの武将も、長い逃亡生活で見るも哀れな姿となり、誰も源氏の総大将とは信じなかった。
 義経を見たアイヌの人々は、彼の刀を指さし「あの恰好からすると、どうせ偽物。使い方すら知らないだろう」とせせら笑した。 これを聞いた義経、「落ちぶれ果てても、拙者は源氏の大将。太刀をけなされては、武士の名がすたる」と言うや否や、傍らにあった大きな岩を一刀のもとに切りつけた。そのあ余りの速さに、アイヌの人々は刀を抜いたのさえ気付かなかった程だったとの事。
 眼前の岩は、気合もろとも真っ二つ。鬼気迫る義経の太刀さばきに、足がガタガタ震えたという。 その後、義経は樺太に渡り中国へ、そしてあのジンギスカンとなって世界を征服したのだと言う説もある。
 
 
※ 竜神沼
その1) 何時の頃か、竜神沼で材木屋が付近から切り出した木材を沼に入れて置いていたが、数日後に残らず消え失せていた。ところが、利尻富士町の山麓の「姫沼」には、沢山の木材が浮かんでいた。竜神沼と利尻富士町の姫沼がつながっているとの話が広がった。この話を聞きつけた民間テレビが取材に来たほど。
その2) 明治の終わり頃、毎年ニシン場どきになると、何処からともなく一人の老人が現れ、漁場から漁場をまわり、酒などをご馳走になって帰っていった。 漁場の人々は大漁の神様ともてなしていたが、ろくなもてなしをしなかった時は不思議と不漁だった。この老人は竜神沼の主で竜神沼の使いだったと、今も古老の語り草となっている
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