☆ 歴史 ☆  Kouichi Oba ☆ 
   (宗谷に関する出来事)  出来事 ※ 歴史上の人物   歴史伝説
※ 出来事・その他は、主な出来事を稚内市史から抜粋しています。
※ コシャマインの戦い

 15世紀の室町時代、津軽の豪族・安藤氏が、勢力を強めてきた東北の豪族・南部氏に追われ、蝦夷地に渡った。そして、東は現在の函館市に志苔館の鍛冶職人(和人)がアイヌの少年を殺した事をきっかけに、オシャマンベ(現・長万部)の首長コシャマインを中心にアイヌが一斉に蜂起、館が攻略されるなど和人とアイヌ民族との戦い。およそ100年間続いた。

※ シャクシャインの戦い

 シャクシャインは日高アイヌの首長。1669年に日高のチャシを拠点に、松前藩の不公平な貿易などに対して起きたアイヌ民族の蜂起。 松前藩はシャクシャインに和睦を呼び掛け、応じたシャクシャインを酒宴の最中謀殺した。その後、アイヌ軍は敗れ松前藩のアイヌ民族に対する支配を一層強めた。

 
※ クナシリメナシアイヌの戦い

 1789年(寛政元年)、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑 された。蜂起に消極的なアイヌに一部の和人が保護された例もあるが、この騒動で和人71人が犠牲となった。松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請 負人の権利を剥奪、その後の交易を新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。一方、幕府は、寛政3~4年、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を行った。ロシア使節アダム・ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか3年後の寛政4年の事。

 
 ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ

 1764年4月8日〜1807年3月13日(43才)
ロシア帝国の外交官で極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカ及びカリフォルニアの植民地化を推進した人物。露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)を設立したほか、クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海(1803年)を後援し隊長として日本まで同行した。  
 1804年(文化元年)、長崎に来航し通商交渉を求めたが拒絶される。 1805年(文化2年)、稚内市ノシャップ岬に上陸した。
 

 
   チャシ
 チャシはアイヌ文化の中でも重要な位置を占めていると考えられており、丘の先端に堀を作ったり、丘の上を平らに削ったりしてお供え餅の様な形にしたもので、戦いの為の砦としての機能のほか、動物やサケ産卵床の見張り場、あるいは儀礼や祭祀の場などとして発展したもの。 稚内では、弁天1号チャシ、弁天2号チャシ、ピリカタイチャシ、ポンチャシュナイチャシ、大岬チャシ、、泊岸1号チャシ、泊岸2号チャシなどがある。特に、チャシ内に竪穴住居跡を残す増幌河口2号チャシ、増幌チャシなどは、サハリンとの関係を知るうえで重要な遺跡である。
 ※ 弁天1号チャシ、弁天2号チャシ
 
弁天1号チャシ・・・チャシは「砦・館・柵囲」と言われ、、市街背後の海岸段丘上にある。遺構として一条の空壕があり、掘り上げた際に盛られたと思われる土盛りが壕の南側に見られ、チャシ構築時に造られたものかどうかは不明だが、壕から丘陵先端部にかけて階段状に三段の平坦部が造られている。
 
弁天2号チャシ・・・南東・南西の両側が崖となった、細長い丘陵地を2本の空壕で区画して、壕の間はほぼ平坦で45mの距離がある。先端部は崩壊の進んだ急峻な崖になっており、原形をとどめてはいない。(稚内市HPより)
 ※ ピリカタイチャシ
 宗谷湾に面した宗谷丘陵西岸に位置し、東西に沢が深く入り込んだ舌状台地先端部に平坦面約20m四方の大きさで、東にむかって下降する形で、斜面には4ケ所の小平坦面もあります。
 眼下に宗谷湾、対岸に稚内市街、晴れた日には遠くサハリンも見え、この眺望の良さは対岸の弁天1号・2号チャシとも連絡のとれる視野範囲の中にあり、チャシの機能を考えるうえで重要な意義を持つものと思われ、宗谷湾内のチャシは構築時には互いに関連があったのかもしれません。
 チャシ名の「ピリカタイ」はアイヌ語の「ピリカ・タイ=美しい・森」の意。
 
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