☆ 歴史 ☆  Kouichi Oba ☆ 
   (宗谷に関する歴史上の人物)  出来事 ※ 歴史上の人物   歴史伝説
歴史上の人物は、主に宗谷村に関係のある人々を抜粋しています。(画像は一部 ウキベディアより)
※ 武田 信弘 (たけだ のぶひろ)    
1431年~1494年  永享3年  63歳   福井県小浜市伏原(旧・若狭国)  
長禄元年(1457)、アイヌ民族の東部首長コシャマインは同族を率いて蜂起し、和人の館を襲って次々に陥落させ、残るは茂辺地館と花沢館のみになった。
 翌長禄2年、上ノ国の花沢館主、蛎崎季繁方に逗留していた武田修広は、自らの蛎崎軍の先陣として出陣し激しく反撃した挙句、ついにコシャマイン父子を七重浜に誘い出しこれを打ち破った。 秀吉は大いに喜び、信広に幼女を娶らせて蛎崎家を継がせ、天の川沿いに州崎館を設けて居館とした。以来、信広は蝦夷島の覇者として基礎を固め松前藩の始祖となっていく。勝山館は信広が十五世紀半ばに築いた山城で、夷王山には信広を祀る夷王山神社が建っている 。
※ 松前 慶広 (まつまえ よしひろ)    
1548年~1616年  天文17年  68歳   北海道松前町(旧・蝦夷松前) 
蝦夷地は、かつて秋田檜山の城主安東氏支配地で、蛎崎家が代官を務めていた。5代目の慶広は、幼少から腕力や胆力、機略に優れ人望も厚かった。 天正10年、父の季広(スエヒロ)が隠居したので、35歳で代官になった。天正18年、豊富秀吉は東北地方の検地家来を派遣した。 安東家の当主はまだ16歳の少年だったので、慶広は好機ととらえて上京し、秀吉に謁見した。
 蝦夷地の事情など知らない秀吉は喜び、慶広に従五位下民部大輔の官位を与えた。 これにより、蛎崎家は安東家から離れて、蝦夷地の領主になった。
※ 串原 正峯 (くしはら せいほう)     
????年~ ????年   ????   ???? 

  「夷諺俗話」
※  庵原 弥六 (いはら やろく)    
 ????年~ ????年   ????   ????
※ 田沼 意次 (たぬま おきつぐ)       
1719年~ 1778年   享保4年   59歳  江戸・本郷弓町 
 蝦夷地の調査に青島俊蔵を始め、庵原弥六、佐藤玄六郎ら5名の普請役と大石逸平ら6名の下役を派遣した。下役の中には、「竿取」と言う人夫の身分で分かりし最上徳内もいた。 
※ 村山 伝兵衛 (むらやま でんべい)        
1738年~  1813年   ????   80歳  北海道松前町(旧・蝦夷松前)

 ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー  (Jean François de Galaup, comte de La Pérouse)        
1741年~  1778年   ????   37歳   フランス
 フランスの海軍士官及び探検家。太平洋における遠征航海の指揮をとり、最後はオセアニアで消息を絶った。
日本では天明五年、田沼意次の送り込んだ調査隊が蝦夷地を探検していた頃、フランスからも極東へと向かう2隻のフリゲート艦があった。 ペルーズ伯爵率いる太平洋探検隊である。
 伊能 忠敬 (いのう ただたか)          
1745年~  1818年   ????   73歳   千葉県山武郡九十九里町(旧・上総国山辺郡小関村)
  神保定常の三男に生まれ18歳の時、下総国佐原村(千葉県香取市佐原)の伊能家の養子になった。
寛政6年伊能家を繁栄させ、50歳で隠居した忠敬は、江戸に出て幕府天文方歴局の高橋至時に入門、数学、天文学、暦学を学んだ。至時は32歳、親子ほどの年齢差だったが、熱心に勉学に励んだ。 ここで忠敬は最高の暦学と言われた「歴像孝成後編」を深く理解し、門下一とうたわれた。
 青島 俊蔵 (あおしま しゅんぞう)            
1751年~  1790年   ????   39歳   ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
  
※ 最上 徳内 (もがみ とくない)               
1754年~  1836年   宝暦4年   82歳    山形県
 実家は貧しい農家であったが、学問を志し長男であるにもかかわらず家を弟たちに任せて奉公の身の上となり、奉公先で学問を積んだ後に、師の代理として下人扱いで幕府の蝦夷地(北海道)調査に随行、後に商家の婿となり、さらに幕府政争と蝦夷地情勢の不安定から、一旦は罪人として受牢しながら後に同地の専門家として幕府に取り立てられて武士になるという、身分制度に厳しい江戸時代には珍しい立身出世を果たした(身分の上下動を経験した)人物でもある。
   「蝦夷草紙」    
 ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ (Nikolai Petrovich Rezanov)               
1764年~  1807年   ????   43歳   
 ロシア帝国の外交官。極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。
 米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)を設立したほか、クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海(1803年)を後援し、自ら隊長として日本まで同行した。この日本来航(1804年、文化元年)はアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節としてのものである。
※ 高田屋 嘉兵衛 (たかだや かへい)            
1769年~  1827年   明和6年????  58歳   兵庫県淡路市(旧・淡路国)
 淡路島生まれの高田屋嘉兵衛が、新造船の辰悦丸に荷物を満載して兵庫を出航、蝦夷地箱館は向かったのは寛政8年(1796)  箱館で積み荷を売りさばき、空船に蝦夷地の産物のサケ、マス、コンブ等を積み兵庫に戻った。 嘉兵衛28才のとき。これをきっかけに箱館に店を開き、北前船で荷物を運び、大きな利益を上げた。 
※ 松田 伝十郎 (まつだ でんじゅうろう           
11769年~  1842年   明和6年  73歳    越後国頚城郡鉢崎村(現新潟県柏崎市)
 越後国の貧しい家に生まれ、江戸時代中期から後期にかけての幕臣・探検家。諱は元敬。幼名は幸太郎。14歳の時、幕史に認められ江戸に出て、御小目付松田伝十郎に養われ、仁三郎元敬となのった。
 寛政11年(1759)、蝦夷地が幕府直轄になると、蝦夷地御用掛となり、船で厚岸に赴き、翌年まで虻田や室蘭で過ごした。その後、箱館奉行支配調役に昇進し択捉島に渡った。間宮林蔵と樺太を踏査し、樺太見聞の実測図を作成した。   「蝦夷地見聞録」 「北夷談」
※ アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン (イヴァン・フョードロヴィチ・クルゼンシュテールン)       
1770年~  1846年   明和6年  75歳    エストニア
  日本への使節レザノフをのせた世界周航艦隊を指揮して,1803年クロンシュタットを出港。西回りで文化元年(1804)長崎につく。通商交渉を幕府に拒否されたのち,日本海を北上,北海道,千島などの沿岸を測量。ロシア人最初の世界一周をはたし,1806年帰国した。のち海軍大将。1846年8月24日死去。75歳。著作に「世界周航記」など。
※ 近藤 重蔵 (こんどう じゅうぞう)    
1771年~  1829年   明和6年  58歳     東京都(旧・江戸)
  江戸の与力、近藤右膳の第二子に生まれた。父は砲術、誌歌に秀で重蔵も7,8才で「孝経を読むほどの俊才だった。しかも年頃になると身長は180㎝もあり、威風堂々たる体躯だった。 寛政元年(1789)祖父以来の職である与力見習いになり、家督を継いだ。 同六年、幕府の学問吟味に応じ25歳で合格。
※ 間宮 林蔵 (まみや りんぞう)     
1780年~1844年  安永9年 64歳      茨城県つくばみ市 
  間宮 林蔵は、江戸時代後期の徳川将軍家御庭番、探検家。名は倫宗。元武家の帰農した農民出身であり、幕府で御庭番を務めた役人であった。生年は安永4年とも。 樺太が島である事を確認し間宮海峡を発見した事で知られる。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる
※ 古賀 侗庵 (こが とうあん)     
1788年~1847年  天明8年 59歳    佐賀県
  幼い時から父の精里に従って学問を好み、後に柴野栗山を師とし諸子百家に通じる。寛政8年(1796)、父が幕府の儒官となった時に江戸に移住。文化6年(1809年)に幕府の儒官見習に抜擢され200俵を賜り、父ともに幕府の教育政策にあずかる。文化14年(1817年)に儒官に昇進し、天保12年(1841年)に布衣を許される。昌平黌で講説するかたわら、佐賀藩邸内にある明善堂に招かれ藩士子弟の教育にたずさわっていた。大塚の先儒墓地に葬る。蔵書印は「古賀氏家蔵記」「古心堂」「乃余巻楼散佚再購之印」など。
 
間宮林蔵の友人であった。

※ 廣川 解 (ひろかわ かい)     
????年~????年  天明8年年 59歳    佐賀県
  「コーヒー」に水腫病治療の効果があることを発見する。「和蘭コーヒー豆、寒気をふせぎ湿邪を払う土瓶に入れて置き冷めたようならよく温め、砂糖を入れて用いるべし」とあって、幕府は輸入が始まったばかりのコーヒーを積極的に北方警備の人たちに支給した。これが日本でのコーヒー普及の始まりといわれている。
※ シーボルト(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト)    
1796年1886  安永9年 70歳     (現バイエルン州北西部)
  神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルクに生まれる。シーボルト家は祖父、父ともヴュルツブルク大学の医師であり、医学界の名門だった。父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授]ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルト。シーボルトという姓の前にフォン (von) が添えられているが、これは貴族階級を意味し、シーボルト家はフィリップが20歳になった1816年にバイエルン王国(ナポレオン戦争の終結に際してヴュルツブルク一帯を領土に加えた)の貴族階級に登録された。シーボルト姓を名乗る親類の多くも中部ドイツの貴族階級で、学才に秀で、医者や医学教授を多数輩出している。
 父ヨハン・ゲオルク・クリストフは31歳で死去した。1歳1か月のときである。以後、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられる。母マリア・アポロニア・ヨゼファとの間に2男1女があったが、長兄と長姉は幼年に死去し、弟のフィリップだけが成人した。
※ 武田 斐三郎 (たけだ あやさぶろう)       
1827年~1880年  文政10年年 53歳     伊予国喜多郡中村(現在の愛媛県大洲市)
  日本初のストーブを考案した。北方の宗谷へ赴任する箱館奉行所の同僚で義父でもあった梨本弥五郎の為であったと言われる。 五稜郭、弁天台場の築造、諸術調所の開設をし、終生人材育成に尽力した科学者(幕末のレオナルド・ダ・ヴィンチ)と称された。
※ 大石 逸平 (おおいし いっぺい)       
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   天明三年普請役として蝦夷地調査に赴く。徳内と東蝦夷方面を探検したが、田沼意次失脚でお役御免。
※ 梨本 弥五郎 (なしもと やごろう)       
1814年~1867  文化11年年年 53歳     
  安政3年箱館奉行支配調役(しらべやく)下役元締として,蝦夷(えぞ)地(北海道)宗谷に赴任する際,妻子をともなって女人禁制とされた神威(かむい)岬を船でとおり迷信を打破した。宗谷の開発をすすめ,箱館に帰着し調役並となる。慶応3年3月18日死去。54歳。名は静宥。字(あざな)は公密。号は晴雪。 宗谷に赴任が決まった弥五郎は、これまでの掟を破り、妻子と共に船に乗り込み神威岬沖を通行しようと、必ず災いが有ると信じる船の漕ぎ手達を励まし、荒れ狂う海の彼方にそそり立つカムイ岩に向かい「国君いま辺土を開かんとす。何の神あってかこれを阻止せん」と叫びながら、、無事通過したとの事。 この勇気ある弥五郎夫婦の行動は、後に続く女性の航海を自由にしたばかりでなく、北方開発の引き金にもなり、神威岬以北の繁栄へと繋がった。安政3年(1856)の事。
    
♬  忍路高島(おしょろたかしま) およびもないが
          せめて 歌葉(うたすい) 磯谷まで
       恨みあるかよ お神威様は
          なぜに 女の足止める  ♬ 

 彼は、「役人は言うに及ばず、支配人、番人に至るまで妻子同伴して赴任するように」と奉行の通達に範をしめした。カッヘル(ストーブ)、ブランケット(毛布)、コーヒーを越冬用に採用した
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※ 松浦 武四郎 (まつうら たけしろう)       
1818年~1888  文化15年年年 70歳  三重県松阪市   
  江戸時代末期から明治にかけての探検家、浮世絵師、著述家、好古家。名前の表記は竹四郎とも。諱は弘。雅号は北海道人、多気志楼など多数。蝦夷地を探査し、北加伊道という名前を考案した。
 
「廻浦日記」      
※ 山崎 半蔵 (やまざき はんぞう)      
????年~1656  ????年年 70歳  三重県松阪市   
  江戸時代に、現在の塩谷町から真岡市に流れる、「市の堀用水」を開削した人物として知られている。 あまり記録が残されていないため、どの様な人物であったのか、よく解っていない。  宇都宮藩高根沢の桑久保村(現桑窪)・柏崎村・土室村(現飯室)周辺は、水不足で開田も難しかっ為、宇都宮藩士山崎半蔵は藩命により、水量豊かな鬼怒川からの用水路を計画し、途中経路の喜連川藩の了解を取り、西暦1646年(正保3年)に、市の堀用水の開削工事に着手し、10年の歳月をかけて、西暦1656年(明暦2年)に完成しまたあまり記録が残されていないため、どのような人物であったのか、よく解っていない。山崎半蔵は用水が完成した西暦1656年(明暦2年)に急死した様。この偉業を讃えて西暦1956年(昭和31年)、山崎半蔵の三百年祭が施行され、高根沢町亀梨の量山寺には「三百年供養碑」が建立された。
※ ラナルド・マクドナルド (Ranald MacDonald)     
1824年~ 1894   明暦2年年年 70歳   カナダ
 英領時代のカナダで生まれたメティ(西洋人と原住民の混血)の船員、冒険家。鎖国時代の1848年に、アメリカの捕鯨船から小船で日本に密入国し、約10か月間滞在した。長崎では日本人通詞たちの英語学習を助け、日本初の母語話者による公式の英語教師になった。
※ 永山 武四郎 (ながやま たけしろう)      
1837年~ 1906   天保8年年年69歳   鹿児島県鹿児島市(旧・薩摩国西田村)
  永山武四郎は薩摩藩の下級藩士の四男に生まれた。戌辰戦争を戦い、陸軍大尉になるが、北門の開拓と防備に尽くそうと明治5年、開拓使に入った。 樺太で日露による摩擦が起こっており危険であるとして、同郷の官吏らと連名で急ぎ新政府に対し「北海道に屯田兵制度を置く儀」を提出した。開拓次官黒田清隆も同様趣旨の建白書を提出した。新政府はこれを容れてて北海道屯田兵制度が発足し、黒田を陸軍中将兼開拓長官兼屯田憲兵事務総理に任命した。黒田の命を受けた武四郎は、開拓使庁にほど近い琴似を選定し、屯田兵村200戸の建設を急ぐ傍ら、青森、宮城、山形の酒田の三県から士族を募った。
※ 黒田 清隆 (くろだ きよたか)        
1840年~ 1900   天保8年年年60歳   鹿児島県鹿児島市(旧・薩摩国西田村)
 薩摩藩士の下級武士の家に生まれた。幕末期に西郷隆盛の薫陶を受け、戌辰戦争を戦い、箱館戦争では青森口総督参謀として蝦夷地に攻め込み、五稜郭の旧幕府軍総帥の榎本武揚と相まみえた。 戦闘は終盤になり、榎本から「海津全書」を送られた黒田は、その心情に打たれて返答に酒肴を贈る。
 降伏して死罪になるべき榎本を、頭を丸までして助け、自ら次官を務める開拓使に交換として迎え、道内の鉱山開発などの調査に当たらせた。 だが、榎本は開拓方針を巡って、黒田が雇った外国人顧問ケプロンらと激し対立する。どちらの言い分も聞いてやりたい黒田が悩みぬいたのも当然だ。
※ 大鵬 幸喜 (たいほう こうき)        
1840年~ 2013   昭和15年年年72歳   樺太敷香群敷香町(上川郡弟子屈町)
  ロシア革命後に樺太へ亡命したウクライナ人のコサック騎兵隊将校、マルキャン・ボリシコの三男として、日本領であった樺太の敷香町(ポロナイスク)に生まれた。 太平洋戦争末期、日本への米軍による原爆投下後、ソ連軍が南樺太へ侵攻して来たのに伴い、母親と共に最後の引き上げ船だった小笠原丸で北海道へ引き上げる事になった。最初は小樽に向かう予定だったが、母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船した。小笠原丸はその後、留萌沖で国籍不明の潜水艦(ソ連の潜水艦との説がある)から魚雷を受けて沈没したが、大鵬親子はその前に下船していた為、辛くも難をのがれた(三船殉難事件)
 北海道での生活は母子家庭だった事から大変貧しく、母親の再婚によって住吉姓に改姓した。その再婚相手の職業が教師だった事から学校を毎年異動していた事もあり、しばらくは北海道各地を転々としていた。あまりの貧しさから大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた話は有名である。
 中学校卒業後は一般の同世代の若者と同じ中卒金の卵として北海道弟子屈高等学校定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていた。
※ 松前 徳広 (まつまえ のりひろ)          
1844年~ 1868   弘化元年年年24歳  北海道松前町(旧・蝦夷松前) 
  松前藩の歴代藩主のなかで、もっとも悲劇的な運命を辿ったのが18代藩主、松前徳広。16代藩主昌広のことして、松前城内で生まれたが、父の昌広は病が悪化し退隠した。 徳広は17才だったので、叔父の崇広が代17代藩主になった。徳広が成人するまでの”中継ぎ役”であった。徳広は生来体がよわっかたが、読書を好み、四書五経を読み、後に「彗星考」「蝦夷島奇観補謰註」を著す。安政5年、将軍に謁見し、志摩守に任ぜられた。
※ 白瀬 矗 (しらせ のぶ)           
1861年~ 1946  文久元年年年85歳  出羽国由利郡金浦村(現・秋田県にかほ市)
  日本の陸軍軍人、南極探検家。最終階級は陸軍輜重兵中尉。幼名は知教(ちきょう)☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
※ 柏木 ベン (かしわぎ べん)            
1879年~ 1963  宝暦4年年年84歳  宗谷村
   現在の稚内市宗谷村会所前に生まれ、10歳のころ宗谷村第二清浜に移り住みました。1942年ごろに目が見えなくなったが、84歳まで長生きした。宗谷地方のアイヌ語の話し手であり伝承にも詳しく、研究者の調査にも応え、宗谷アイヌの言葉や文化を語り遺した。宗谷アイヌの歴史と文化に関する記録は、現在の処大変少ないなかで、これらは貴重な伝承となっている。
渋谷 長吉 (しぶや ちょうきち)            
1886年~ 1985  明治19年年年99歳  
 ( 明治19年9月30日~昭和60年9月2日) 稚内市名誉市民
<<功績概要>>
 昭和4(1929)年から同22(1947)年まで稚内町会議員、同26(1951)年から同38(1963)年まで稚内市議会議員を務めた。この間、市監査委員、市議会副議長1期、同議長2期を歴任し、北海道自治功労者知事表彰などを受けた。同41年(1966)、地方自治功労者として勲5等双光旭日章を受章し、翌42(1967)年3月20日、名誉市民に議決されている。 氏は、稚内市と宗谷村の合併という非常に難しい局面で、市議会の副議長に在職し、険しく困難な両市村の合併交渉の円滑化に努めた。合併は昭和30(1955)年2月1日付で実現したが、その後は議長として合併条件の完全実施に尽くした。
※ 今井 八九郎 (いまい はちくろう)              
1890年~ 1962  寛政2年年年73歳  松前
 松前藩士今井左源太の第三子として、名は信名(のぶかた) 、不山と号し自ら測量師と称した。文化10年、兄のしにより24歳で家督。松前藩の移封に伴い松前奉行所同心となる。文化11年より図読開始、安政元年(1854)の樺太測量で図取を終える。天保年間が主たる図集の期間。
※ 並木 凡平 (なみき ぼんぺい)             
1891年~ 1941  明治24 年年50歳  札幌
 七歳の時に両親とともに台湾に移る。1905年(明治38)年両親が死亡したため叔父に引き取られて札幌に戻る。この頃より「文章世界」「秀才文壇」などに和歌、俳句、短文などを投稿、時折掲載される。1909年(明治42)「北海新聞」を振り出しに新聞記者生活に入り、1920年(大正9)年道内の新聞社三十数社を遍歴の後小樽新聞社に入社。
 凡平の短歌は、定形律の口語歌で生活感に満ち溢れており、人柄の優しさと相まって多くの人々に親しまれ愛された。1927年(昭和2)に自ら編集発行して「新短歌時代」を創刊、1931年(昭和6)終刊。ついで「青空」を創刊。1941年(昭和16)室蘭において長逝。主著に「赤土の丘」「並木凡平全歌集」など。
 歌碑は凡平門下生はじめ彼を慕う多くの人々によって建立された。碑文は雑誌「触土」{1928年(昭和3)3月号}に収められたもの。
※ 加藤 顕淸 (かあとう けんせい)            
1894年~ 1966  明治27年 年年72歳  岐阜県
  1925年東京美術学校彫刻科に入学し、高村光雲・白井雨山に師事。1931年より帝展審査委員。1942年(昭和17年)海軍省アリューシャン方面戦線最高顧問及びキスカ島施設監督官を兼任。1965年日展理事。1966年日本彫塑会会長を就任。同年自宅アトリエ2階より誤って転落死去。
※ 西岡 斌 (にしおか さかん)              
1896年~ 1966  明治29年 年年70歳  岐阜県
 
 昭和7(1932)年から同22(1947)年まで北海道議会議員を務め、同22年から34年まで稚内町長、稚内市長として町・市政を担当した。 初の公選町長であり、市制施行に伴う初代市長であった。この間、自治功労者として同31(1956)年に藍綬褒章を受章している。同35(1960)年9月26日、初の名誉市民の議決を受けた。
 太平洋戦争後の混乱期の中で、旧樺太(サハリン州)との接点という機能を完全に失ってしまった稚内の再建に全力を尽され、水源をケナシポロ川とする上水道拡張事業、稚内郵便局前・ノシャップ岬間の道路舗装、中央埠頭建設をはじめとする港湾整備など数多くの功績を残した。
※ 高橋 善之助 (たかはし ぜんのすけ)              
1898年~ 1966  明治31年 年年66歳  岐阜県
明治31年4月3日~平成3年5月20日) 稚内市名誉市民
<<功績概要>>
 昭和8(1933)年から同23(1948)年まで稚内町議会議員、同13(1938)年から50年以上にわたって稚内商工会議所議員として活躍した。また、同27(1952)年から同40(1965)年まで稚内機船漁業協同組合組合長を務め、同44(1969)年に紺綬褒章、翌45(1970)年に勲5等瑞宝章を受章している。
 氏は、町議会、商工会議所、沖合機船漁業協同組合などの要職を歴任するとともに、水産、消費流通、金融などの業界の振興に尽力した。特に日ソ漁業交渉の日本政府代表顧問、専門委員に任命され、機船漁業の発展に大きく貢献した。名誉市民の称号が送られたのは昭和63(1988)年10月31日である。
※ 時雨 音羽 (しぐれ おとは)              
1899年~ 1980  明治32年 年年81歳  利尻町沓形
  5人兄弟の末っ子として生まれる。父邦蔵は、新潟県佐渡郡の出身。 新湊小学校、沓形小学校高等科卒業。1916年沓形村役場に附属員として勤めていたが、大正7年秋頃上京する。日本大学法科に検定で合格し、大蔵省主税局織物課に勤めた。
 大正14年、新大衆誌『キング』9月号に講談社の依頼で民謡詩「朝日をあびて(後の出船の港)」を掲載。この詩は、中山晋平が作曲し藤原義江が歌ってヒットした。翌大正15年3月には、『キング』3月号に民謡詩「金扇(後の鉾をおさめて)」を掲載。この詩も中山、藤原のコンビによって歌われた。昭和3年創設されたばかりのビクターレコードに文芸顧問として入社。「君恋し」、「浪花小唄」とヒット曲を書き、レコード界草創期の流行歌作詞家となった。また童謡、唱歌も作り、昭和17年には、平井康三郎作曲で、小学校のための文部省唱歌となった「スキー」を作詞している。 昭和44年、紫綬褒章を受章。昭和52年7月より利尻町名誉町民
※ 知里 幸恵 (ちり ゆきえ)              
1903年~ 1922  明治36年 年年19歳  登別市
 北海道登別市出身のアイヌ女性。19歳という短い生涯であった。絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権・復活へ重大な転機をもたらした。

  アイヌ神謡集、銀のしずく、知里幸絵のウウエペケレ(昔話) 
※ 西堀 栄三郎 (にしもり えいざぶろう)              
1903年~ 1989  明治36年 年年86歳  登別市
  「雪山賛歌」を鹿沢温泉で作詞した(メロディーはPercy Montross作曲「いとしのクレメンタイン」。旧姓中学以来の親友である桑原武夫や今西錦司と共に京都大学の学生時代から登山家とそして活動した。 語学が堪能で、1922年旧姓第三高等学校の生徒だったとき、ノーベル受賞直後に日本滞在中のアインシュタインに3日間通訳として同行し京都を案内した。 妻は今西錦司の妹である。妻が「結婚してからも、西堀に聞いたことがあるんですよ。あなた今西の兄と私とどっちが好きなの?」と問い詰めた、というほど今西と親しかった
 植村直己に六分儀の使用法を教えるなど、植村の支持者の一人であった。1973年、70歳の時にネパールの未踏峰ヤルン・カン(カンチェンジュンガ西峰)登山隊長となり、3週間かけて5500mのベースキャンプまで行った。このとき、宇宙塵の収集をした。
※ 土谷 実 (つちや みのる)              
1904年~ 1997  明治36年 年年93歳  登別市
  昭和3年(1928)に北海道帝国大学土木工学科の第一期生として卒業。廣井勇の最初の弟子で、当時、北海道の港湾建設を指導・統括していた伊藤長右衛門(北海道庁港湾課長)のすすめで同年、稚内築港事務所に赴任する。
 北防波堤ドームの設計を手がけるのは3年後の昭和6年(1931)で、まだ26歳の若さだった。設計を指示した所長の平尾俊雄は大正元年(1912)に東京帝国大学を卒業、昭和3年(1928)に網走築港事務所長から稚内築港事務所長を兼務して赴任してきた。土谷が設計を担当した背景には、土谷が大学時代に当時まだ研究途上だったアーチコンクリート橋の設計を学んでいたことがある。土谷はわずか2カ月で、強度計算から図面まですべての設計を終えた。
 平尾から構想を描いたスケッチ程度のものが手渡され、それを土谷が設計としてまとめあげていった。今日では土谷の名前が強調されがちだが、土谷自身が後年、「平尾・土谷の合作」と述懐している。
 当初、柱と柱の間の桁は水平で計画されたが、アーチに変更された。これは屋根がカーブになっているため、構造物全体とのバランスを考えたものだ。景観的にもアーチの方が優れ、土谷の豊かなデザイン力をみることができる。
※ 本郷 新 (ほんごう しん)              
1905年~ 1980  明治38年 年年75歳  登別市
  1924年東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)工芸図案科工彫刻部入学。1939年(昭和14年・33歳)山内荘夫、柳原義達、佐藤忠良、船越保武、らと共に新制作派協会彫刻部創立。1963年(昭和38年・57歳)稚内に氷雪の門が設置される。1978年(昭和53年・72歳)北海道文化賞受賞。
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※ 知里 高央 (ちり たかなか)              
1907年~ 1965  明治40年 年年57歳  登幌別郡幌別村別村
  明治40年4月15日生まれ。知里ナミの長男。知里幸恵(ゆきえ)の弟。知里真志保(ましほ)の兄。イギリス人宣教師バチェラー家の家庭教師,幌別中学などの教師。
※ 矢野 秀徳 (やの ひでのり)              
1907年~ 1996  明治40年 年年88歳  香川県丸亀氏
   1929年東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科卒業。1930年日本美術院・初入選。1933年帝展初入選、後に連続入選。文展に無審査推薦される。1971年日展審査員・会員となる。
※ 瀬戸 常蔵 (せと つなぞう)              
1909年~ 1982  明治42年 年年73歳  
 (せと つねぞう 明治42年12月21日~昭和62年4月24日) 稚内市名誉市民
<<功績概要>> 
 昭和34(1959)年稚内市議会議員、同38(1963)年稚内市港湾審議会委員長、同42(1967)年旭川方面公安委員会委員、同54(1979)年中央漁業調整審議会委員などを務めた。団体歴としても、同30(1955)年宗谷機船漁業協同組合組合長、同34(1959)年稚内法人会会長、同37(1962)年稚内商工会議所会頭・日本商工会議所議員、同38(1963)年北海道機船漁業協同組合連合会会長・全国底曳網漁業協議会副会長など重職に就かれ、さまざまな表彰を受けるとともに、昭和55(1980)年には、勲4等旭日小綬章を受章している。
 氏は、稚内の機船底引き網漁業の先駆者で、水産業の振興、稚内とサハリンの友好親善をはじめ国際問題における日本水産界の大御所として活躍した。国連海洋法会議の業界代表、日ソ漁業交渉の業界代表・政府代表顧問などとして欠かせない人材であった。昭和62(1987)年4月24日、74歳で逝去したが、3日後の4月27日に名誉市民の称号が議決され亡き霊に贈られた。
※ 知里 真志保 (ちり ましほ)              
1909年~ 1961  明治42年 年年52歳   室蘭市
 
 知里 真志保は、アイヌの言語学者。文学博士。専攻はアイヌ語学。姉は、『アイヌ神謡集』の著者・知里幸恵。兄の知里高央も、教師をつとめながらアイヌ語の語彙研究に従事した。
地名アイヌ語小辞典、 アイヌ語入門      
※ 佐藤 忠良 (さとう ちゅうりょう)               
1912年~2011  明治45年 年年99歳   宮城県
 
 1934年東京美術学校に入学。船越保武は終生の友でありライバルでもある。1945年から1948年までシベリア抑留に遭う。1966年東京造形大学の創立に尽力し教授になる。1981年フランス国立ロダン美術館で個展。生前日本芸術院会員に推挙され、文化功労章や文化勲章の候補にも選ばれたが本人は「職人に勲章はいらない」と語り、すべて辞退した。     
※ 峯 孝 (みね たかし)               
1913年~2003  大正2年年年90歳   京都
 
  1931年(昭和6年)京都市散る美術工芸学校彫刻科卒業。東京美術学校中退し帰京後、松田尚之主宰の東山研究所に通う。戦後、自由美術協会展に発表。武蔵野美術大学教授。
※ 浜森 辰雄 (はまもり たつお)                
1916年~2009  大正5年年年93歳  
  (はまもり たつお 大正5年2月9日~平成21年9月4日) 稚内市名誉市民
<<功績概要>>
 昭和26(1951)年から同30(1955)年まで北海道議会議員、同31(1956)年から同34(1959)年まで稚内市教育委員会委員・委員長を務めたあと、同34年に稚内市長に就任、以後平成3年まで8期32年間にわたり市政を担当した。この間、稚内市体育協会名誉会長、宗谷観光連絡協議会会長、宗谷地域総合開発期成会会長、全国市長会副会長・相談役、運輸省港湾審議会委員・会長代行として活躍、さまざまな表彰を受けるとともに、平成4(1992)年には、勲3等旭日中綬章を受章した。
 氏は、市長として財政再建をはじめ上水道拡張、港湾整備、空港整備を図る一方、教育・文化施設、体育施設、福祉施設の充実、観光振興、漁業振興、酪農振興などに尽力、特に200海里時代突入後の漁業緊急・恒久対策の樹立、水産加工技術の振興に指導力を発揮し、現在の稚内市の基礎を確立するとともに、21世紀に向けた都市づくりの展望を開き、名市長とうたわれ、市長退任後の平成3(1991)年9月27日に名誉市民の議決を受けている。
※ 佐野 文夫 (さの ふみお)                
1918年~2002  大正5年年年84歳  
 
彫刻家として活躍。文展(現在の日展)直士会入選始め、日展・自由美術展など数多く入選。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
※ 流 政之 (ながれ まさゆき)                
1923年~2018  大正12年年年95歳  長崎県 
 幼少時は東京で過ごす。父は政治家で立命館大学の創始者の中川小十郎。1936年立命館大学法学部に進学。その後中退し、海軍予備学生出身のゼロ戦搭乗員として終戦を迎える。1975年ニューヨーク世界貿易センターのシンボルとして約250トンの巨大彫刻「雲の砦を作り国際的評価をえる。
※ 大高 正人 (おおたか まさと)                
1923年~2010  大正12年年年87歳  福島県三春町
 1947年(昭和22)東京大学工学部建築学科卒業。1949年同修士課程を修了し、前川国男建築設計事務所に入所。福島県教育会館(1956)、晴海高層アパート(1958、東京都)、東京文化会館(1961)などの計画において、前川事務所で中心的な役割を果たした。
 1956年、建築設計体制の変革を旗印に若手建築家・評論家らが結成した「五期会」に加わる。1960年に開かれた世界デザイン会議では、「メタボリズム・グループ」に最年長のメンバーとして名を連ね、槇文彦と共同で「人工土地」の考え方にもとづき、「群造形」をコンセプトとした立体的な再開発計画を提案した。
※ 多田 美波 (ただ みなみ)                
1924年~2014  大正13年年年89歳  台湾高雄市
1944年女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科西洋画部卒業後、1962年に多田美波研究所を設立。光の反射を用いた抽象的立体造形作品を製作。アルミを付き、シワをつけ反射状型に造形した「周波数」シリーズは代表作。他に、絵画・環境デザイン・工業いデザイン・空間デザインも手掛け、日本赤十字社の血液事業で贈呈されるグラス器(冷酒グラス)。
※ 吉田 政一 (よしだ まさいち)                
1928年~2001年  昭和3年年年72歳  
(よしだ まさいち 昭和3年12月8日~平成13年10月20日) 稚内市名誉市民
<<功績概要>>
昭和38(1963)年から稚内市議会議員を2期、同46(1971)年からは北海道議会議員を8期連続して努められ、この間、北海道議会運営委員長や北海道議会議長、全国議会議長会副会長等の要職を歴任するなど、市政はもとより道政の発展に尽力された。
 また、稚内機船漁業協同組合代表理事組合長をはじめ、北海道機船漁業協同組合連合会代表理事会長、稚内日ロ経済交流会会長など数多くの要職を務められ、稚内市はもとより道内・全国の水産振興にも大きく貢献された。

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※ 垣内 治雄 (かきうち はるお)                
1931年~2001  昭和6年年年歳  横浜
 1954年ハマ展会員推挙。1955年横浜国立大学学芸部卒業。自由美術居会会員。代表作「希望」は、港の見える丘公園に設置されているのを始め、各地に沢山設置されている。小学校4年生を対象に創られた作品で心身共に健やかに伸びて欲しいと願いが込められている。 
※ 細野 稔人 (ほその としひと)                
1932年~1997年  昭和7年年年65歳  
 1959年(昭和34年・27歳)二紀展発出品受賞。1976年(昭和51年・44歳) 第30回二紀展菊華賞受賞。1997年(平成9年・65歳)埼玉県文化賞受賞。
※ 萱野 茂 (かやの しげる)                
1926年~2006年  大正15年年年80歳  
 日本のアイヌ文化研究者であり、自信もアイヌ民族である。アイヌ文化、及びアイヌ語の保存・継承の為に活動を続けた。二風谷アイヌ資料館を設立し、館長を務めた。政治活動ではアイヌ初の日本の国家議員。
※ 本間 武男 (ほんま たけお)                 
1929年~2006年  昭和4年年年77歳  北海道余市町

 版画家・イラストレーターとして知られる。水彩画を髪髪とさせるシルクスクリーン版画に独自の境地を開いた人気の版画家。その一方で小国も制作。道内各地に設置されている。  
※ 井須 孝誠 (いす こうせい)                  
1933年~2014年  昭和8年年年81歳  
 (昭和8年5月11日~平成26年12月18日) 稚内市名誉市民
 <<功績概要>>
 長年にわたり卓越した識見と非凡な経営手腕を発揮され、地域経済発展の基礎作りに多大な貢献をされた。特に稚内信用金庫理事長、会長及び最高顧問として、地域金融の振興と地元経済の発展に精励されると共に、社団法人全国信用金庫協会副会長、社団法人北海道信用金庫協会会長等の要職に就かれ、稚内市のみならず国内経済の発展に尽力された。又、平成13年から平成22年までの9年間にわたり、稚内商工会議所会頭として稚内市商業の育成と産業の振興に尽力された他、稚内市都市計画審議会会長、稚内市地方港湾審議会会長を始め、多くの要職を歴任されるとともに、国土交通省国土審議会特別委員や北海道旭川公安委員会委員長など、全道、全国の場で活躍された。 さらに、稚内音楽文化協議会会長として札幌交響楽団による稚内定期公演を実現するなど文化振興にも寄与された。
※ 高橋 洋 (たかはし よう)                   
1938年~2014年  昭和13年年年81歳新潟県  
東京芸術大学彫刻科大学院終了。1992年愛知県芸術文化選奨文化省。愛知県立芸術大学教授☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
※ 横田 愼一 (よこた しんいち)                   
1939年~2014年  昭和14年年年81歳新潟県  
 (よこた しんいち 昭和14年3月28日~  ) 稚内市名誉市民
≪功績概要≫
 開業医として、市民の命と健康を守るべく、地域医療の充実に尽力されるとともに、学校医として、児童の健康維持増進に寄与したほか、疾病や感染症の予防に関し、学校に対して必要な指導や助言を行うなど、学校教育の円滑な運営にも多大な貢献をされた。
 また、稚内市介護保険事業計画策定委員会委員をはじめ、宗谷北部介護認定審査会会長、稚内市介護保険運営協議会副会長、同会長を歴任するなど、介護保険事業の計画策定から基盤づくり、事業の運営に尽力され、本市の保健医療行政の発展に多大に貢献をされた。
 さらに、社団法人宗谷医師会(平成24年より一般社団法人宗谷医師会)の理事、会長を歴任するなど、本市のみならず宗谷管内の地域医療発展に尽力された。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 
※  佐藤 範夫 (さとう のりお)                  
1939年~1997年  昭和14年年年58歳81歳旭川市   
 旭川東高等学校から北海道学芸大学旭川分校美術科に進。旭川日本大学高校教諭。純美術協会会員・北海道美術協会会員・自由美術家用会会員。 
 
※  笹戸 千津子 (ささと ちずこ)                 
1948年~1997年  昭和23年年年58歳81歳山口県徳山市   
1970年東京造形大学彫刻専攻卒業。東京造形大学は佐藤忠良が創立に尽力した学校であり、その一期生だった事から30年に渡り佐藤忠良のモデルを務める。1987年中原悌二朗賞優秀賞受賞。2007年いわき市ELICONAで「佐藤忠良と笹戸千津子」二人展。 
※  田淵 吉信 (たぶち よしのぶ)                
1953年~1997年  昭和28年年年58歳81歳岡山県   
 1976年金沢美術工芸大彫刻専攻卒業。卒業制作(無名)が大学に買い上げられる。1979年富山県高岡市の銅器製作会社に入社。1990年独立。アトリエを構える。製作は、仏像・立像・祖師像・胸像・雅楽・蘭陵王像と多彩。 
※  田淵 吉信 (たぶち よしのぶ)                
1953年~1997年  昭和28年年年58歳81歳岡山県   
 1976年金沢美術工芸大彫刻専攻卒業。卒業制作(無名)が大学に買い上げられる。1979年富山県高岡市の銅器製作会社に入社。1990年独立。アトリエを構える。製作は、仏像・立像・祖師像・胸像・雅楽・蘭陵王像と多彩。 
※  アリトラレオ                
1964年~1997年  昭和28年年年58歳81歳アフリカ・セネガル  
 稚内総合文化センター入口にあるモニュメントは1987年稚内ライオンズクラブ・国際ソロプチミストから寄贈されたもの。


☆ 参考文献・資料 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
『稚内観光マイスター中級・上級テキスト』(稚内観光マイスター推進委員会)
『追跡 間宮林蔵探検ルート』(相原秀起 北海道大学出版社)
『開拓の群像』(合田一道、遠田信之 「開拓の群像」刊行委員会)
ウィキペディア(百科事典)
稚内市彫刻マップ資料 
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