歴史

 年表は、主な出来事を稚内市史から抜粋しています。

1456年 (康生2年)  コシャマインの戦い 、アイヌの一斉蜂起が起る
1669年  (寛文9年)  シャクシャインの戦い 、松前藩の不公正な貿易に対して
1685年  (貞享2年)  松前藩、宗谷場所を開設する 
1750年  (寛延3年)  宗谷場所が初めて場所請負人(村山伝兵衛)に委ねられる 
1785年  (天明5年)  天明の蝦夷地調査が実施される 
1786年  (天明6年)  宗谷で越冬を試みた幕府役人・庵原弥六死亡 
1787年  (天明7年)  フランス人探検家、宗谷海峡を「ラ・ペルーズ海峡」と命名 
1789年  (寛政元年)  クナシリ・メナシアイヌの戦い(場所請負人の横暴に反抗しアイヌが
和人71人を殺害 
1792年  (寛政4年)  宗谷場所で幕府による御救交易が行われる 
1804年  (文化元年)  宗谷アイヌの人口1,800人、レザノフが長崎に来航 
1805年  (文化2年)  レザノフがノシャップ岬に上陸 
1806年  (文化3年)  レザノフの部下により樺太が襲撃される、遠山金四郎影普宗谷へ来る 
1807年 (文化4年)  津軽藩士230名が北方警備を命じらる(4月)、ロシア艦隊によりエトロフ
島が襲撃(シャナ事件・4月) 
1808年  (文化5年)  会津藩士が交代で宗谷・樺太・利尻に派遣される(4月)
松田伝十郎、間宮林蔵、宗谷より樺太探検に出発する(4月) 
1809年  (文化6年)  間宮林蔵、樺太が島であることを確認、「北蝦夷」と正式に定める 
1855年  (安政2年)  宗谷の警備は秋田藩  日露通商条約が締結 
1856年  (安政3年)  梨本弥五郎、妻を伴い宗谷へ赴任 
1869年  (明治2年)  蝦夷地が北海道と改められる 
1875年  (明治8年)  樺太・千島交換条約結ばれる
1879年  (明治12年)  宗谷戸長役場出来る 
1885年  (明治18年)  宗谷岬灯台が点灯される 
1905年  (明治38年)  ポーツマス条約により南樺太が日本領となる 
1911年  (明治44年)  山火事が起り823戸(稚内市:752戸、宗谷:71戸)が焼失 
1913年  (大正2年)  声問に発電所が出来、稚内に初めて電灯がつく 
1923年  (大正12年)  樺太との間に稚泊航路が開設される 
1925年  (大正14年)  トベンナイ沢に簡易水道が出来る 
1928年  (昭和3年)  稚内の中心地区が大火に見舞われ681戸が焼失する 
1936年  (昭和11年)  稚内北防波堤ドームが完成 
1949年  (昭和24年)  稚内が市制を施工する 
1953年  (昭和28年)  ニシンの群来最後となる 
1956年  (昭和31年)  稚内公園で樺太犬の訓練始まり、22頭が南極観測船「宗谷」で南極へ 
1960年  (昭和35年)  稚内空港が開設される 
1972年  (昭和47年)  米軍基地が稚内から撤去される 
1974年  (昭和49年)  利尻礼文サロベツ国立公園が誕生 
1977年  (昭和52年)  ソ連が200海里漁業専管水域を設定 
1983年  (昭和58年)  大韓航空機撃墜事件起きる 
1984年  (昭和59年)  第1回全国犬ぞり稚内大会が開催される 
1987年  (昭和62年)  稚内空港がジェット化され東京直行便が就航 
1989年  (平成元年)  カーフェリー「ニュー宗谷」就航、稚内港からサハリンへ向けツアー船がでる、 
1990年  (平成2年)  稚内港マリンタウンプロジェクトが始まる 
1994年  (平成6年)  温水プール水夢館、大沼野鳥観察館がオープン、稚内〜コルサコフ定期航路が就航 
1997年  (平成9年)  稚内温泉「童夢」オープン、東京直行便通年運航開始 
2004年  (平成16年)  宗谷丘陵の周氷河地形が北海道遺産の指定を受ける 
2007年  (平成19年)  稚内副港市場がオープン 
2008年  (平成20年)  稚内観光マイスター初級検定始まる 
2009年  (平成21年)  稚内観光マイスター中級検定始まる  
2010年  (平成22年)  稚内観光マイスター上級検定始まる 
2011年  (平成23年)  環境都市を宣言、「稚内メガソーラー発電所」、「北のカナリアたち」稚内ロケ 
2012年  (平成24年)  4月 キタカラ(KITA color)全面オープン、 道内114番目の 道の駅「わっかない」が誕生、鹿児島県枕崎市と友好都市を締結する
   
2015年 (平成27年)  稚内ブランド改定 
     

コシャマインの戦い

 15世紀の室町時代、津軽の豪族・安藤氏が、勢力を強めてきた東北の豪族・南部氏に追われ、蝦夷地に渡った。そして、東は現在の函館市に志苔館の鍛冶職人(和人)がアイヌの少年を殺した事をきっかけに、オシャマンベ(現・長万部)の首長コシャマインを中心にアイヌが一斉に蜂起、館が攻略されるなど和人とアイヌ民族との戦い。およそ100年間続いた。

シャクシャインの戦い

 シャクシャインは日高アイヌの首長。1669年に日高のチャシを拠点に、松前藩の不公平な貿易などに対して起きたアイヌ民族の蜂起。 松前藩はシャクシャインに和睦を呼び掛け、応じたシャクシャインを酒宴の最中謀殺した。その後、アイヌ軍は敗れ松前藩のアイヌ民族に対する支配を一層強めた。

クナシリメナシアイヌの戦い

 1789年(寛政元年)、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑 された。蜂起に消極的なアイヌに一部の和人が保護された例もあるが、この騒動で和人71人が犠牲となった。松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請 負人の権利を剥奪、その後の交易を新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。一方、幕府は、寛政3~4年、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を行った。ロシア使節アダム・ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか3年後の寛政4年の事。

ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ

 1764年4月8日〜1807年3月13日(43才)
ロシア帝国の外交官で極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカ及びカリフォルニアの植民地化を推進した人物。 露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)を設立したほか、クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海(1803年)を後援し隊長として日本まで同行した。  
 1804年(文化元年)、長崎に来航し通商交渉を求めたが拒絶される。 1805年(文化2年)、稚内市ノシャップ岬に上陸した。






チャシ

 チャシは、丘の先端に堀を作ったり、丘の上を平らに削ったりしてお供え餅の様な形にしたもので、戦いの為の砦としての機能のほか、動物やサケ産卵床の見張り場、あるいは儀礼や祭祀の場などとして発展したもの。
 稚内では、弁天1号チャシ、弁天2号チャシ、ピリカタイチャシ、ポンチャシュナイチャシ、大岬チャシ、、泊岸1号チャシ、泊岸2号チャシなどがある。特に、チャシ内に竪穴住居跡を残す増幌河口2号チャシ、増幌チャシなどは、サハリンとの関係を知るうえで重要な遺跡である。

弁天1号チャシ、弁天2号チャシチャシ

 弁天1号チャシ・・・チャシは「砦・館・柵囲」と言われ、、市街背後の海岸段丘上にある。遺構として一条の空壕があり、掘り上げた際に盛られたと思われる土盛りが壕の南側に見られ、チャシ構築時に造られたものかどうかは不明だが、壕から丘陵先端部にかけて階段状に三段の平坦部が造られている。
 弁天2号チャシ・・・南東・南西の両側が崖となった、細長い丘陵地を2本の空壕で区画して、壕の間はほぼ平坦で45mの距離がある。先端部は崩壊の進んだ急峻な崖になっており、原形をとどめてはいない。(稚内市HPより)

 稚内市港2丁目陸橋からH15年4月撮影。


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