★ さいほく ★    Kouichi Oba ☆ 
 ※ 稚内公園 ※ ノシャプ岬 ※ 稚内港北防波堤ドーム ※ 稚内副港市場 ※ 旧瀬戸邸 ※ KITA Color
  ※ 稚内公園
       
   稚内市街地の西方に位置する小高い丘陵全域が公園化されており、約45.2ヘクタールの面積を持ち、展望施設と郷土資料館が一緒になった「百年記念塔」の施設や、樺太犬に関するモニュメントが点在している。最も有名なのが氷雪の門。稚内を訪れる観光客の大半が足を運ぶ。氷雪の門周辺には、九人の乙女の碑、測量の碑、樺太犬供養塔など様々な碑が有るほか、開基百年記念塔とその館内にある北方記念館もメジャースポット。また、アウトライダー誌に掲載されて以来、有名となった利礼の丘があり、旅人が絶賛するスポットです。
 又、昭和50年(1975)から「日本一短いロープウエイ」が有りました。(2006)廃止。
 
 ※ 氷雪の門(樺太島民慰霊碑) 
 大理石の霊石を配した高さ8mの望郷の門、雪と氷の中で厳しく生き抜き、敗戦の失意から再び逞しく立ち上がった人々を象徴する高さ2.4mの女性像からなっている。
 顔は戦争で自分達が受けた苦しみを表し、手の平を見せているのは、樺太も家族も,すべてを失った事を表し、足はその悲しみや苦しみから早く立ち上がろうと表現している。足の間の波模様は、海峡を表し、胸の3本のV字は、雪と氷と風を表現している。
 帰らぬ樺太への望郷の念と、樺太で亡くなった人々の慰霊の為に昭和38年(1963)8月20日に建立された。 設計と製作は、ヒューマスティックな作風でしられる札幌出身の本郷新氏が手掛けた。
 
 ※ 九人の乙女の碑  
 昭和20年(1945)8月20日、終戦5日後に、樺太真岡郵便局で電話交換業務を終えた後、自ら命を絶った9人の女性の霊を慰める為に建てられた。 高さ1.8m、幅2.4mの登別石で造られた屏風上の碑。交換手姿の乙女の像を刻んだレリーフをはめ込み、亡くなった9年の女性の名前、彼女たちの最後の別れの言葉となった文字が刻まれている。この碑は、彫刻家・本郷新氏と樺太引き揚げ者で札幌在住の上田佑子さんの寄進によるもの。

 可香谷 シゲ 高城 淑子  高石 ミキ  松橋 みどり  吉田 八重子 
 伊藤 千枝 志賀 晴代  澤田 キミ  渡邊 照   
 
 ※ 行幸記念碑
 昭和43年(1968)9月、開道百年記念式典に出席された後、ご來市された昭和天皇・皇后両陛下は、稚内公園の「九人の乙女の碑」の前で、当時の浜森辰夫市長から9人の乙女の悲話をお聞きになり冥福をお祈りされました。

 御製 (天皇)  御歌 (皇后) 
 樺太に 命をすてし たおやめの   樺太に つゆと消えたる 乙女らの
 心思えば 胸せまりくる   みたまやすかれとただ いのりぬる 
  
 
 ※ 南極観測樺太犬訓練記念碑  
 昭和31年(1956)1月、翌年からの2年間が国際地球観測年にあたる事を機に、日本が初めて南極観測に参加するにあたり、極地での物資輸送に樺太犬の犬ぞり隊の主役が、稚内周辺から集められた樺太犬だった。
 南極へ出発する前に”犬ぞり隊”は、稚内公園で約8ケ月間、選び抜かれた22頭の樺太犬がニブフの後藤直太朗氏の厳しい訓練を受けた。
 
 ※ 樺太犬供養塔 
  白い大陸で亡くなった犬達の霊を慰める為の慰霊碑で、稚内公園山頂の犬ぞり訓練跡地に昭和36年(1961)10月に建立された。観測隊がケルンを作り、それを道標として雪原を前進した事から、三角のケルンに秩父硬石がめぐらされている。
高さは2mあり8月上旬に慰霊碑の前で市内の小学生が中心となり、花束を捧げ、「タロ・ジロの樺太犬」の歌を合唱し盛大に慰霊祭が行われている。
 
 ※ 教学の碑
 樺太師範学校は昭和14年4月、45万島民の文化の向上と教育振興の重責を担う教育養成機関として、豊原市に開校した日本ではじめての男女共学の学校。
 樺太師範学校の教育精神は同窓生の教育実践に生かされ、戦後、我が国の復興と平和文化国家建設に大きな役割を果たすと共に、多くの教え子に継承されている。
 母校は既にないが、教育の精神と共に我々の胸中に激然として存続されている。
                                 建立誌より 
 
 
 ※ 測量の碑  
 
 標石の位置と高さ   上部面は方向と主な地迄の距離が表示 
  北極点  :4,970km
  ホノルル :6,086km
  シドニー :8,833km
  東京   :1,090km
  北京   :2,167km
  ロンドン :9,094km
 北緯 45度25分14.9563秒
 東経 141度40分03.1685秒
 標高  101,607メートル
 会則  平成20年10月15日
 
  ※ 百年記念塔
  稚内の”開基百年”と市政施行30周年を記念して、昭和53年(1978)7月に建設された。 稚内公園の丘陵、海抜170mの位置に有り、鉄筋つくり2階建ての「北方記念館」を基部に地上80mの高さの鉄筋コンクリート中空型の「記念塔」。
 塔の下から70mの高さの位置(海抜240m)に、4面ガラス張りの定員45人の展望台があり、15人乗りのエレベーターで一気に登る事が出来る。 展望台からの見晴らしは240mの上空から望む事となり、南は広大なサロベツ原野、東はオホーツク海、西は日本海に浮かぶ利尻・礼文島、更に北は宗谷海峡意を隔ててサハリンの島影をとらえる事が出来る。
 ※ 稚内森林公園  
 稚内公園のさらに奥地裏山に広がる53ヘクタールの人工林が有り、標高70~80mの緩やかな斜面に昭和49年(1974)から11年間、市民の手に寄って植樹されたエゾヤマザクラ800本を始めグイマツ、アカエゾマツなど約3,000本育成している。
 林間キャンプ場や車道、遊歩道が整備され、市民の余暇利用の場や稚内を訪れるライダー達のキャンプ場として利用されている。 公園には人馴れしている野生のエゾシカやキタキツネが親子連れで現れる事もしばしば。駐車場は1,000台可能で東屋、炊事施設、トイレがある。利用料金は無料で売店は有りません。
 
 ※ ゲストハウス 氷雪
 海抜165mで開基百年記念塔に隣接され、稚内新エネルギー研究会が運営。風車で起こした電気で、水を分解し、水素を取り出す。その水素が開発した燃料電池に供給する事で、熱・電気を安定的に得る事を実現し、「新エネルギーサテライト」と命名しオープンした。風車の下で無料休憩施設として、燃料電池のシステムを公開し風力発電、エコ足湯、燃料電池など自然エネルギーの模型や解説などが展示されていた。
 現在は足湯も利用されず、休憩所となっている。
 
 ※ 稚内公園ロープウェイ
 日本最北端に位置する稚内市には、ロープウエイがあった。(平成18年3月に廃止) 特徴は、①日本一北にある②日本一短いロープウエイ。この稚内公園ロープウエイは、観光ガイドブックにも載る事もなく、北海道に長く住んでいる人々でも、その存在を殆ど知らなかった。 線路長は130m、高低差71m、15人乗りでゴンドラはタロ号、ジロ号の2基、竣工は1975年。昭和33年南極越冬隊が天候悪化で泣く泣く15頭の観測犬を南極に置いてきて、翌年の越冬隊が南極に行くと奇跡的に2頭の犬が生きていた。ゴンドラの名前は、第1次南極観測越冬隊に同行する為、最北の地稚内で訓練を受けたタロ、ジロの名前が命名された。
 
 ※ 稚内公園のヤマザクラ
 段階的に造成された稚内公園の中間にステージが設けられ、その周辺に5月上旬限定ではあるがエゾヤマザクラが美しい花を咲かせる。
 以前は標本木に指定されていたが、現在は末広の天北緑地に変更された。
 
 ※ 北門神社
 天明5年(1785)、宗谷場所を請け負っていた三代目村山伝兵衛が浜で天日(太陽)を拝んでいる群衆を見て天照大神を思い、航海安全、大漁の守護神として、神宮大麻を授かり天照皇大神を奉斎し、宗谷の地に社を建立して、宗谷大神宮と称したのが創始。
明治29年(1896)7月15日、現在地に社殿を移築し、武甕槌人、事代主神を合祀して、北門神社へ名称を変更。 その後、明治35年に社殿を新築したが、明治44年の山火事で全焼。大正2年に本殿、神輿電を立て替えた。近年は最北の神社として、観光客が参拝に立ち寄る姿も増えている。
 
 ※ 並木凡平の碑
 並木凡平は本命篠原三郎。札幌生まれ。七歳の時に両親と共に台湾に移る。明治38年(1905)両親が死亡した為、叔父に引き取られて札幌に戻る。この頃より「文章世界」、「秀才文壇」などに和歌、俳句、短文などを投稿、時折掲載される。明治42年(1909)道内の新聞社三十数社を遍歴後、小樽新聞社に入社。凡平の短歌は、定形率の口語歌で生活感に満ち溢れており、人柄の優しさと相まって多くの人々に親しまれ愛された。昭和2年(1927)に自ら編集発行して「新短歌時代」を創刊。昭和16年(1941)室蘭にて長逝。主著に「赤土の丘」、「並木凡平全歌集」など。
 
 ※ 北門神社階段
 社務所横(北門神社)からの階段で登り詰めた処にある境内に、 「放浪の歌人・並木凡平」の歌碑がある。 稚内の知人宅に来た際、早朝ふらりと散歩に出掛け、踏みしめて登った神社の境内から突然、目の前に広がった宗谷海峡を眺めて読んだ歌。 碑は、凡平直筆の色紙の文字を拡大して刻んだもの。昭和43年(1968)に建てられた。

 「八十段 のぼりきわめて 北門の
           社にひらく宗谷うみなぎ」
 
  ノシャップ岬
 稚内の西北端、宗谷海峡に面する岬で、右にサハリンの島影と宗谷岬を望め、眼前には利尻山と礼文島をI一望する事が出来る。
 稚内灯台、ノシャップ寒流水族館、青少年科学館などがある。自衛隊のレーダーサイト(陸軍、海軍、空軍)がある。
 ノシャップはアイヌ語で”ノッ・シャム”が語源と言われ「岬のそば」という意味。

 ※ 稚内灯台 
 ノシャップ岬のシンボル的な存在であるノッポな灯台は、紅白の鮮やかなツートンカラーが特徴で、高さ42.7mで、北海道では、1番の高さ、全国でも島根県の「出雲日野岬灯台」(44m)に次ぐ2番目の高さを誇る灯台。 明治33年(1900)、現在地から約900m南の丘陵地(現・自衛隊レーダーサイト)に北海道では初めての水銀槽付回転式の灯台として建てられた。
 戦後、稚内灯台付近にアメリカ軍の通信施設やレーダー基地が設けられ、昭和41年(1966)1月10日に現在の場所へ移された。灯台の高さは、旧灯台と変わらない様に建てられた為、42.7m。 北緯45度26分58秒、東経141度38分43秒。14秒へだて6秒間に2回閃光を放し、その光は18カイリ(約33.3km)届く。
 
 ※ ノシャプ寒流水族館 
 稚内灯台は、稚内市開基90年、市政施行20年を記念し昭和43年(1968)7月に会館。日本の水族館としては、100番目にあたる。
 メイン水槽は、360度内側からぐるりと見渡せる内面式回遊水槽。回遊水槽90トンで、ホッケ、ソイ、カレイ、オオカミウオ等北方系の海水魚と共に、イトウ、ニシン、ミズダコ、タラバガニ、ケガニ、ホッカイエビ、ウニ、ホヤなど。このほか、ゴマフアザラシ、フンボルトペンギンも。
 
 ※ 稚内市青少年科学館 
 昭和49年(1974)7月28日オープン。 総面積1,832平方メートル、2階建ての施設でノシャップ寒流水族館と入口は同じになっている。
 特徴は、南極観測に関する資料が多い点で、歴代の砕氷船「宗谷」「ふじ」「しらせ」「2代目しらせ」の模型や実際に南極観測で使用された犬そりや、南極の石、樺太犬タロ・ジロの関係資料が抱負に展示されている。
 
 ※ 恵山泊漁港公園 
 ノシャップ寒流水族館の西側に、平成8年(1996)漁業活動の能率アップと観光客との交流を目指し設置された海浜公園。 広場の中央にイルカのモニュメントを配しており、地元の子供達から「イルカ公園」と呼ばれている。
 稚内西海岸に面しており、利尻・礼文の島影と日本海に沈む夕日が美しく、観光客に人気のスポット。眺望をバックに写真を撮るには絶好のフォトポイントとなっている
 
  ※ 旧米軍基地跡  
 昭和20年(1945)のポツダム宣言受諾に寄り、連合軍による日本への進駐が開始された。北海道は、函館、小樽に始まり、稚内は米国第77師団の通信業務隊が現在の緑地区に駐留した。その後、昭和27年(1952)現在のノシャップ地区にレーダーサイトを含めた一大基地を建設。基地は昭和47年(1972)に撤収され、その任務は自衛隊に引き継がれた。全国でも数少ない陸・海・空が揃った基地となっている。
 昭和58年(1983)9月1日未明に発生した「大韓航空機撃墜事件」では、稚内の自衛隊レーダーサイトが捕らえた撃墜事件の一部始終が全世界に伝えられた。
  ※ 岬神社 
 昭和62年(1987)に、神社の前浜沖合300m、水深4mの海中から創建当時の鳥居の一部が発見された。その鳥居は、天保2年に宗谷場所の請負人達が寄進しようとした花崗岩製のもので、長さ1.35m、直径27㎝、その後も鳥居の笠木や柱などが発見され引き揚げられた。
 神職は常駐しておらず、北門神社が祭祀を司っている。
     
 ※ 稚内港北防波堤ドーム
 胸壁をかねる円蓋を持つ蒲鉾を縦に半分にした様な半アーチ形のデザインは、強風と高波を克服する為のもので、昭和6年(1931)~同11年まで5年の歳月(うち1年は予算が付かず休工)をかけ建設された。 設計者は当時26才だった土谷実氏。高さ13.6m、柱の内側から壁まで8m、総延長427m、柱の数は70本ある。 
 昭和13年(1983)には線路がドームの端まで延長され、2階建ての稚内桟橋駅が設けられていた。北防波堤ドームは、樺太へ渡る人々で賑わった頃のシンボルでもあり、古代ローマ建築を想わせる太い円柱となだらかな曲線を描いた回廊は、世界でも類のない建造物。

 昭和62年(1987)、ドーム手前の護岸部分に散策歩道を設置したモダンな遊歩道”しおさいプロムナード”が誕生。長さは215m、稚内の花・ハマナスをイメージしたモザイクタイル貼になっている。平成13年(2001)に北海道遺産に指定された。
 平成24年(2012)、北防波堤ドーム周辺が「北防波堤ドーム公園」として整備され、野外ステージも設置され、様々なイベントが開催されている。







 ※ 稚泊航路記念碑
 稚泊航路は、稚内と樺太大泊(現・サハリン州コルサコフ)間を運行していた鉄道省による連絡航路だった。大正12年(1923)5月運行が開始され、昭和20年(1945)8月に航路が廃止されるまでの22年間、284万人もの乗客を運んだ。
 この業績を讃える為、昭和45年(1970)11月に北防波堤ドームの中央位置に記念碑 が建てられた。
 ※ 横綱大鵬関記念碑
 戦後、昭和の大横綱大鵬幸喜さんが旧樺太から引き揚げる際に稚内に上陸したことを記念した石碑の竣工式と贈呈式が29日、設置場所の北防ドーム公園で行われた。
 第48代横綱の大鵬関の記念碑は、旧友だった稚内東部物産元社長の仲村房次郎さん=今は横浜市在住=を中心に建立され、土俵を模した土台の上に大鵬関の身長(187㎝)とほぼ同じ高さの記念碑に手形や生前サインする際に書いていた〝忍〟〝愛〟などの文字が刻まれている。裏側には「ここ稚内で降りた事で今の自分がある。横綱になれたのも稚内が原点」と、大鵬関が仲村さんに言い残した言葉が記されている。

 贈呈式で、横田さんから目録と大盃を受け取った工藤市長は「仲村氏がこの場にいないのは残念だが、尽力して頂いたことに重ねて御礼を申し上げたい。大鵬関が人生の岐路に立った場所として感慨深く、多くの人が訪れ樺太の歴史を風化させないような場所にしていきたい」と話した。
 大盃は稚内樺太記念館で展示されている。
 ※ 温水プール 「水夢館」
 平成6年(1994)7月、道北初の本格的な温水プールとしてオープンした。 ホタテ貝を開いた様な二つのドームが連なる形で潮風にもビクともしない様、軽くて丈夫なチタン張りの屋根。 競技用の公認プール(25m×7コース)に加え、ウォータースライダーのあるレジャープール、サウナやジャグジー、トレーニングジム、二つのダンススタジオ等、水泳以外でもリフレッシュ出来る多機能な設備を複合した健康増進施設。また、玄関やエレベーター、トイレ、プールの中のスロープ等、身体に障がいのある方にも配慮した作りとなっている。 設計は建築家・大高正人氏。観覧席は約70席ある。
  稚内旅客ターミナル
 平成20年(2008)5月オープン。延べ3,928㎡の2階立ての建物。1階は発券ロビーや受付カウンター、売店。2階は250席以上ある乗船待合室、飲食店がある。
 施設内は全てバリアフリー対応で、エレベーター、エスカレーターが完備されている。乗船も2階の全天候型乗船ブリッジから自動改札機を抜けて船内に入れる様になっている。 ターミナル施設としては北海道初のオール電化。
 
  ※ 稚内港国際旅客ターミナル
 稚内とサハリン州コルサコフを結ぶ定期フェリー拠点をして稚内市が建設した。延べ1,313㎡の2階建て。 内部は、1回が出入国ロビー、受付カウンター、待合席など。2階は待合ロビー、送迎デッキとなっている。
 ※ 稚内市ポートサービスセンター
 稚内港を訪れる観光客や漁船員、港湾関係者を温かく迎える為の施設。 建物は1階建て、床面積36.73㎡で平成7年(1995)4月オープン。畳敷きの休憩室(約36畳)と洋室35㎡を始め、シャワー室、洗面所、コインランドリー、トイレなどがあり、休憩、仮眠、身障者用トイレ等を完備、身支度等誰でも利用できる。外国人観光客と市民の交流など多目的な施設としても利用される、ゆっくりくつろげる施設。
 入館料は無料。
 
 ※ わっかない海の駅 
 「わっかない海の駅」は、「稚内ポートサービスセンター」と「稚内副港市場」の二つの施設を持つ海の駅として、平成25年(2013)3月に北海道で6番目の海の駅として登録された。
 海の駅とは、誰でも・気軽に・安心して楽しめる施設。 来訪者の為のビジターバース、トイレ、情報提供ガイド機能を備えており、観光、交流の拠点をしてマイカーのみならずプレジャーボートによる会場からの来訪も期待されている。


 
     
 ※ KITA Color  
  ※ 道の駅 「わっかない」
 国道40号の終起点に位置する日本最北の道の駅で、新しく生まれ変わった稚内駅に隣接する形で、平成24年(2012)5月に北海道で114番目の道の駅として誕生した。
 道路情報は災害・気象情報などをタッチパネルで確認出来る情報端末と、道路情報や航空機、フェリーの運航状況をリアルタイムで提供するデジタルサイネージは24時間稼働しており、トイレも常時使用できる。
 駐車場に電気自動車(EV)休息充電施設も設置されている。


 ※ KANE POPPO (カネポッポ)
 平成24年(2012)4月、稚内駅の整備に合わせ、彫刻家・流政之氏により、”サハリンの鐘”と一体になったモニュメント「KANE POPPO」が誕生し、キタカラ1階に設置された。 この金は、日本の富山県高岡市で造られ、樺太が日本領であった時代、機関車の汽笛代わりに使われていたと伝わるもので元々はユジノサハリンスク駅(旧・豊原)に置かれていた。 サハリンの鉄道車両が老朽化、JR東日本が、32両を無償で提供した。その際、ロシア側から友好の返礼として寄贈されたもの。

 ※ 旧瀬戸邸
 稚内が底引き漁業の前線基地として活気に満ちあふれていた昭和20年代に、親方の邸宅として建てられた。 邸内には、当時の宴会風景も再現されいるほか、稚内の漁業に関するパネルなどの展示スペースや底引船の模型、昭和39年(1964)に開催された大相撲稚内準本場所の番付、北前船を模した特注の自在かぎ(炉かぎ)などが展示されている。
 1階に7部屋、2階に6部屋があり、建築材に秋田杉などが沢山使用され、旅館建築を彷彿させる豪勢な造り。 建物の外観としては、赤いトタンの屋根と棟飾り、正面と裏口にそびえる赤レンガ2本の煙突が特徴的。 平成25年6月、国の登録有形文化財に「旧瀬戸家住宅主屋」の名称で登録。

 
     
 ※ 稚内副港市場 


 
  ※ にしん街道
 春を告げるにしん漁は、人々の暮らしとして「にしん番屋」に象徴される数多くの遺産が全長700kmに及ぶ日本海沿岸に点在している。魚に関し、それぞれ共通する文化を持つ日本海沿岸の市町村を「しにん街道」としてネットワークで結び、連携し新たな観光ルートの掘り起こしや、文化を後世に伝承する事などを目的として、南は松前町から北は稚内まで、21基目の標柱として平成16年(2011)12月に街道の証として建てられた。
 
 ※ 稚内市日ロ友好会館
 昭和47年(1972)、サハリン州ネベリスク市と稚内市との間で友好都市が提携された。その後、「道北市民の船」や「サハリン州墓参団」などの交流が活発に続けられ、日ソ両国に友好の輪が広がった。
 昭和55年(1980)7月に完成。開館は、ロシアの木材船や緊急避難所の為に入港すロシア人船員の休息の場として使用する事が主な目的だった。 現在は、各種サークルや情報交換に、また日ロ交流の場として広く利用されている。
 
  ※ 北辰ダム  
 日本最北端に位置する上水道用貯水池。稚内市水道部が管理する。ぱっと見はアースダムのように見えるがロックフィルダムという事で、堤高は30mを越える。
 稚内市が1年間に使う分量に相当する水をなみなみと蓄えている。稚内市の浄水場までは26kmもの導水管とポンプによって水が引かれている。

 北辰ダムには約670万トンの原水が蓄えられており、これは稚内市が1日に使う量が約2万トンなので約1年分に相当する。
 
  ※ みどりスポーツパーク  
 みどり公園の整備事業として2018年に着工。カーリング場を新築し、旧稚内大谷高校舎と体育館を改修した。総工費は21億5、500万円。カーリング場は国際大会にも対応出来る4シートで通年施設としては道内4ヶ所目。
 観覧席180席。団体利用は1シート1時間で一般1,400円。個人でも有料で有料で出来る。カーリング場の他多目的体育館、柔道や剣道などの武道場、アーチェリー場などを備える。
 
  ※ カーリング  
  戦略が重要で、「氷上のチェス」と呼ばれる。 1チィーム4人でプレーし、対戦する2チィームが8投ずつを交代で投げる「エンド」を10回繰り返す。1エンドが終わった時点で、同心円の中心に最も近い位置にストーンを置いたチィームが、相手より近いストーンの数だけ得点する。10エンドの合計得点で勝負が決まる。メンバーのうち「スキップ」が作戦を考えて、ストーンを置く場所を指示。ストーンを投げる人と、シートの氷上をブラシで溶かしてストーンの曲がり具合や到着する距離をコントロールする「スイーパ」との連携がカギを握る。  
  ※ 稚内西海岸
  日本海オロロンラインの北端に位置し、稚内の坂ノ下(ノシャップ岬から8kmほど南)から抜海を経由し、サロベツ原野に至るまでの道道106号沿いの南北20kmに及ぶ海岸線を”稚内西海岸”と呼ぶ。 この地区は、利尻島が一番近くに、しかも姿美しく見る事が出来る景勝地で「利尻礼文サロベツっ国立公園」の一角を形成している。道道106号稚内天塩線が昭和62年(1987)に完全舗装された事により観光ルートとして注目されている。
 雄大な日本海に面し、砂丘と湿原が果てしなく広がるこの一帯は、春から初夏にかけ、海岸や草原の草花、砂丘林内の湿原植物などが一斉に花開く原生花の宝庫。
 このルートは、国立公園地内である事から電柱や電線が一本もなく、カーブの少ないフラットな道路が続く。
 
  ※ 稚内市浜勇知展望休憩施設 (愛称:こうほねの家)
  浜勇知展望休憩施設は、隣町、豊富町の稚咲内港から約20km日本海を北上した処にあり、平成元年(1989)4月にオープ。 ログハウス風の平屋建ての施設で、屋上やテラスからは、美しい日本海を見る事が出来る。
 施設のすぐ前は、地下水脈による湧き水がたまって出来た”こうほね沼”が広がり、初夏から夏にかけ、沼には”ネムロコウホネ”と呼ばれるスイレンに似た花が咲くほか、沼周辺にもハマナスやエゾカンゾウをはじめとする原生花約100種が咲いている。 俳優:森繁久彌氏の歌碑もある。

   浜茄子の 咲きみだれたるサロベツの
             砂丘の涯の 海に立つ富士

  
 
  ※ 稚内温泉「童夢」
 
日本海にそびえ立つ秀峰・利尻山を眼前に望む富士見地区に、平成9年(1997)に稚内温泉「童夢」が誕生した。 船や稚内のシンボル北防波堤ドームをイメージした館内は明るく広く、市民や観光客に大人気の日帰り温泉施設。ゆったりとした大浴槽の他、打たせ湯、寝湯、バイブラバス、高温サウナ、ミスとサウナ、薬草、更に利尻・礼文を望む事の出来る露天風呂など快適な温泉。 高齢者や障害のある方々に配慮した設計が特徴的で、段差をなくし、手すりやエレベーターを設置してあるほか、大浴槽には入浴補助機器が備えられている。
 また、ナトリウムー強塩化物・炭酸水素塩温泉の温泉はリウマチや婦人病、皮膚病などに特に効果がある。湯冷めしない温泉でもある。
 稚内観光協会等では、源泉を20分の1に濃縮した”稚内温泉”のペットボトル詰めを土産品として販売している。
 
  ※ 稚内市総合体育館
 
 
  ※ 稚内市少年自然の家    
  ※ 夕日ヶ丘展望台
  夕日ヶ丘パーキングはオロロンラインを稚内方面に走っていくと、稚内市街地入口付近にある坂を登った途中にあるパーキングエリアでトイレが完備している。高台から見下ろす日本海や浮かぶ利尻島や、雲がなければ礼文島も見えて夕方には日本海に沈む夕日を観れる人気の絶景スポット。車は10台位駐車可能だが、冬季は封鎖されるので注意。
  
  ※ 軍旗奉焼の地
  道々稚内・天塩線から「夕日ヶ丘展望台」へ向かう道路の中腹から、急斜面を上りつめた処に「坂ノ下神社」がある。 神社横には「軍旗奉焼の地」の石碑と神秘の「竜神沼」がある。
 終戦を迎えた稚内に3つの軍旗が存在し、特に陸軍では、天皇の象徴として、旗のもとに進み、戦い、これを敵の手に委ねる事は最大の恥辱とされていた。
 終戦の詔勅が下った昭和20年8月、命によって軍旗はそれぞれ焼却(奉焼)されたが、歩兵第158連隊は・・・「8月26日僅かに利尻山の頂きが見える朝、竜神沼に細く悲しく鳴り渡り響くラッパの音。全員捧げ銃の中、旗手の捧持する軍旗に火を点じた。残った笠頭の菊のご紋は底知れぬ沼の中央へ・・・」と語っている。
   ※ ミルクロード休憩所 「レダ」像
  白鳥を抱いた女性の像は「レダ」と言い、ギリシャ神話に登場するチュエダレオす妃が水浴中、白鳥の姿となって近づいたゼウスに恋をしたと言う作品で、昭和62年、初めて声問大沼に白鳥が飛来するようになり、大沼を一望するこのパーキングに羽根を休める白鳥をイメージして設置された。

 
  田淵 吉信 作
  ※ 秋田木材跡
  明治時代後半まで稚内の森林は、自然が保たれ、何も手が付けられていない緑一色の美しい風景であった。明治42年(1909)、秋田木材は幕別川流域の国有林払い下げを受け、伐採林を声問川口に集材して原木を本州各地に送り始める。大正後期にかけて短期間に見渡す限りの伐採跡地、無流木地と化すに至った。
 大正元年(1912):秋田木材が声問に木工場を新築する。
 大正2年(1913):秋皿木材が火力発電所を設置する。
 大正3年(1914):同発電所から稚内市街へも電気が供給され始める。
 大正14年(1925)、昭和2年(1927):秋田木材が閉鎖される。
 外観は煉瓦造の2枚の分厚い壁が特徴的であり、上部に行くに従って迫り出している。この建築は元々煉瓦造の壁に鉄骨の三角ファントラスを架け渡しただけの大きく単純な一体空間であったと推察される。西側と東側に建つ壁面は、隣接建物の外形より一回り大きなサイズで煉瓦壁が積まれ他との区画を意図した防火壁としての機能があると思われるが、それはその内部に発電設備が装備されていたためと推察される。
 2枚の壁が自立する厚さで立ち上がり、開口部も最小限に抑えられていることが読み取れる。その一方で、その間を煉瓦の仕切壁で南北面をふさぎつつ、アーチ状の開口部が軽やかに内部に光を差し込んでいたと考えられる。
 
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