稚内公園

 稚内公園は、約45.2ヘクタールの面積を持ち、展望施設と郷土資料館が一緒になった「百年記念塔」の施設や、樺太犬に関するモニュメントが点在している。
 隣接する約50ヘクタールの「森林公園」があり夏はキャンプ場として賑わっている。


   氷雪の門       九人の乙女の碑     行幸啓記念碑     南極観測樺太犬訓練記念碑

氷雪の門

 正式名称は「樺太島民慰霊碑」と言い、黒大理石の霊石を配した高さ8mの望郷の門、雪と氷のなかで厳しく生き抜き敗戦の失意から再びたくましく立ち上がった人々を象徴する高さ2.4mの女性像からなっている。
 顔は、戦争で自分たちが受けた苦しみを表し、手の平を見せているのは樺太も、家族も、全てを失った事を表し、足は、その悲しみや、苦しみから早く立ち上がろうと表現している。その足の間の波模様は、海峡を表し、胸の3本のV字は、雪と氷と風を表している。
 昭和38年(1963)8月20日に建立された。以来、毎年8月20日に樺太ゆかりの人々が集まり「氷雪の門・九人の乙女の碑 平和記念祭」が行われている。
 設計と製作は、札幌出身の彫刻家・本郷新氏が手掛けている。

* ー碑文ー *

 人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った。戦後はその門も固く閉ざされた。
 それから18年、望郷の念止みがたく樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に木原豊次郎氏、葛西安一氏の熱意と、全国樺太引揚者連盟の賛同並びに全国からの心温まる協力によって、ここに記念碑を造る。
 氷と雪の中で厳しく生き抜いた人々の象徴する女人像、望郷の門、霊石を三位一体とする彫刻家本郷新先生の力作がここに出来上がった。この記念碑を氷雪の門と命名した。

九人の乙女の碑

 終戦5日後の昭和20年(1945)8月20日、樺太真岡郵便局で電話交換業務を終えた後、自ら若い命を絶った9人の女性の霊を慰める為に建てられた。高さ1.8m幅2.4mの登別石で造られた屏風上の碑。
 交換姿の乙女の像を刻んだレリーフをはめ込み、亡くなった9人の女性の名前、彼女達の最後の別れの言葉となった「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」の文字が刻まれている。
 氷雪の門の横に寄り添うように建てられ、氷雪の門と共に毎年平和記念祭が行われている。
 この碑は、彫刻家・本郷新氏と樺太引揚者で札幌在住の上田弘子さんの寄進により造られたもの。

* ー説明文ー *

 戦いは終わった。それから5日後、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡に上陸を開始しようとした。その時突如日本軍との間に戦いが始まった。戦場と化した真岡の街、その中で交換台に向かった九人の乙女らは、詩を以て己の職場を守った。
 窓越しに見える砲弾の炸裂、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい「皆さんこれが最後です さようなら さようなら」の言葉を残して静かに青酸カリを飲み、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。
 戦争は再びくりかへすまじ、平和の祈りを込め尊き九人の乙女の碑を慰む。
可香谷 シゲ 高城   淑子  高石  ミキ 
松橋 みどり  吉田 八重子  伊藤 千枝 
志賀   晴代  沢田   キミ  渡辺   照 

行幸啓記念碑

 昭和天皇・皇后両陛下が昭和43年(1968)9月、開道百年記念式典に出席された後、稚内公園の「九人の乙女の碑」の前で、浜森市長から九人の乙女の悲話をお聞きになりました。両陛下は見頭に涙を浮かべられ、冥福をお祈りされました。
 後日、この時のご感銘を次の様に詠まれました。
     御製(天皇)                      御歌(皇后)
 樺太に 命をすてし たおやめの          樺太に つゆと消えたる おとめらの
    心思えば 胸せまりくる                みたまやすかれとただ いのりぬる

 稚内市と北海道電気通信局、稚内樺太引揚者連盟とで構成される御製碑建立会が建立したもので、スウェーデン製のインペリアルレッドにインペリアブラックがはめ込まれている。

稚内市史より

南極観測樺太犬訓練記念碑

 昭和31年(1956)1月、翌年からの2年間が国際地球観測年にあたる事を機に日本が初めて南極観測に参加するにあたって、極地での物資輸送に樺太犬の犬ぞり隊の主役が、稚内周辺から集められた樺太犬たちだった。
 南極へ出発する前に”犬ぞり隊”は、稚内公園で約8ケ月間、選び抜かれた22頭の樺太犬が後藤直太朗氏の厳しい訓練を受けた。

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  稚内公園入口
 トベンナイ川の左側に稚内公園入口があり急な坂を上る。
  トベンナイ川
 稚内公園入口の右にあり、アイヌ語で水が美味しいと言う意味。
   西岡斌(にしおかさかん)
 市制施行に伴う初代稚内市長

トベンナイ川
 アイヌ語でトペン・ナイ「甘い・川」と呼ばれている。水が美味しいと言う意味で、トペ(ニ)・ウン・ナイ「イタヤモミジの木・ある・川」と言う事も考えられる。
 イタヤモミジからは甘い樹液が採れる事からトペ・ニ「乳・の木」と呼ばれていた。 実際に良質の水で、水道第一拡張工事の際も市民の水がめとして使用していた。

西岡斌(にしおかさかん) (明治29年8月20日〜昭和35年9月26日)
 昭和7年から同22年まで北海道議会議員を務め、同22年から34年まで稚内町長、稚内市長として町・市政を担当した。
 太平洋戦争後の混乱期の中で、旧樺太(サハリン州)との接点という機能を完全に失ってしまった稚内の再建に全力を尽くし、水源をヘナシポ川とする上水道拡張事業。稚内郵便局前・ノシャップ岬間の道路舗装、中央ふ頭建設を始め港湾整備など多数の功績を残した。
 昭和31年(1956)に自治功労者として藍綬褒賞を受賞し、昭和35年、初の名誉市民の議決を受けた。

   樺太犬供養塔   測量の碑   開基百年記念塔    売店

樺太犬供養塔
 白い大陸で亡くなった犬達の霊を慰める為の慰霊碑で、稚内公園山頂の犬どり訓練跡地に昭和36年(1961)10月に建立された。
 観測隊がケルンを作り、それを道標として雪原を前進した事から、三角のケルンに秩父硬石がめぐらされている。
 高さは2mあり、8月上旬に慰霊碑の前で市内の小学生が中心となり、花束を捧げ、「タロー・ジローの樺太犬」の歌を合唱し盛大に慰霊祭が行われている。

開基百年記念塔 (北方記念館)
 昭和53年(1978)7月、稚内の”開基百年”と市営施行30年を記念して建設され、海抜170mの位置にある。鉄筋造り2階建ての「北方記念館」を基部に、地上80mの高さで鉄筋コンクリート中空型の「記念塔」からなっている。
 1階・2階部分は「北方記念館」となっており、江戸時代に樺太を探検して島である事を発見した日本人で唯一世界地図に名前を残す間宮林蔵や北の防人達の生活に特化した資料が展示されている。
 2階展示室には、南樺太が日本領だった頃の懐かしい地図や資料、近代の稚内とサハリンの関係を伝える資料など、貴重な「樺太関係資料」が展示されている。
 塔の下から70mの高さの位置(海抜240m)には、4面ガラス張りの展望台があり、15人乗りのエレベーターで昇る事が出来る。展望台からの見晴しは、南は広大なサロベツ原野、東は茫洋たるオホーツク海、西は日本海に浮かぶ利尻島・礼文島、北は宗谷海峡を隔ててサハリンの島影を捉える事が出来、360度の大パノラマを楽しる。

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