宗谷公園

 通称:宗谷歴史公園

 稚内から国道238号線を宗谷岬に向かう途中に宗谷歴史公園がある。 稚内の発祥の地であり、現在の税金にあたる運上金を徴収する運上屋の跡地や稚内発祥の地である。
宗谷厳島神社鳥居  宗谷厳島神社 

宗谷厳島神社
 宗谷厳島神社

 天明元年(1781)に建立されたと考えられている。祭神は市き島姫命という、水の女神。








旧藩士の墓 旧藩士の墓
 江戸幕府が、最初に西蝦夷地直轄を決行したのは文化4年(1807)と言われる。翌文化5年(1808)松前、宗谷、利尻、樺太に東北の会津藩士1,633名が交代要員として派遣され、宗谷には370名が配備された
 旧藩士の墓は全部で13基あり、この時犠牲になった会津藩士3名をはじめ、秋田藩士や幕府関係者らが葬られている。特に安政3年(1856)梨本弥五郎に従って初めて積丹半島を越えてきた女性や宗谷で生まれた武士の子らも含まれている
 旧藩士の墓の隣には、地元の俳人、岡崎古艸(コソウ)が詠んだ句がある。


    「 たんぽぽや 会津藩士の 墓はここ 」

津軽藩兵詰会の記念碑
 津軽藩兵詰合の記念碑

  幕府が宗谷に最初派遣した津軽や会津など東北の藩士、悲惨を極めた派兵も文政4年(1821)に蝦夷地の幕府直轄が廃止された事に伴い一応打ち切りとなったが、安政2年(1855)に再び幕府から敬語を命じられ東北から藩士が派遣された。
 当時冬を越す為ストーブの原型となったカッヘル、ブランケット(毛布)が使用される様になっていた。 この碑は、コーヒーを飲む事が出来ず亡くなった藩士達を悼み、コーヒー豆を型どった碑を建立した。
 

 宗谷護国寺宗谷護国寺
 徳川幕府は、元禄以来寺院の建立を禁じていたが、亨和2年(1802)蝦夷地(北海道)に3つだけ寺を建立する事を許可した。宗谷護国寺は、北方警備の為、この地に秋田藩士達が安政3年(1856)、蝦夷地に先に建立されていた有珠善光寺の住職が宗谷場所の協力を得て建立した幕府直轄のお寺(浄土宗)



 宗谷厳島神社
 宗谷の歴史的建造物の中で、今なお存在しているのが「宗谷厳島神社」である。
 天明2年(1782)奉納と記された「鰐口」が現存する事から、天明元年(1781)に建立されたものと考えられている。祭神は市杵島姫命という、水の女神。
 室町時代の永正12年(1515)、松前藩の祖先武田光広が「夢」のお告げを信じ、蝦夷地海兵の要衝に「弁財天」を祭るよう命じた事から、その子孫である蠣崎慶広が、永禄4年(1561)性を”松前”と改めた折、宗谷の地にも「弁財天堂」を寄進したのが始まりとされている。
 社殿は何度も改修されたが、現在の社殿は明治3年(1870)、開拓半官・武田信順氏により修築されたもの。

 宗谷護国寺
 
元禄以来、徳川幕府は新しい寺院の建立を禁じていたが、享和2年(1802)蝦夷地に3つだけ寺を建立する事を許可した。宗谷護国寺は、北方警備の為この地に秋田藩士達が駐屯する事になった安政3年(1856)、蝦夷地に先に建立されていた有珠善光寺の住職が、宗谷場所の協力を得て建立した幕府直轄の浄土宗のお寺である。
 明治の半ば頃までは、西が利尻、礼文、増毛、東は網走まで、遠くは樺太までも死者供養の為寺僧が巡回していた北蝦夷唯一の寺である。 その後、明治44年(1911)に一度焼失し、現在の「宗谷護国寺」は位置を変え、昭和25年(1950)に再建されたもの。

 * 蝦夷三官寺とは
     有珠=善光寺   厚岸=国泰寺  様似=等澍院(とうじゅいん)
 * 幕府直轄の浄土宗のお寺とは
     宗谷=護国寺  余市=法隆寺  石狩=法性寺(ほうしょうじ)

ページのトップに戻る